戸田城聖全集質問会編 186 生活が苦しく信心が楽しくない

 

〔質問〕 楽しい信心をするようにいわれております。ところが、家庭の生活が苦しいので、あまり楽しくなりません。どのようにしたらよろしいのでしょうか。

 

 これを一般的に申し上げますが、人間というものは、なんのために生まれてきたのかという問題です。そこを考えると、釈尊は法華経寿量品第十六の自我偈(じがげ)で「衆生所遊楽」と説いてありますし、日蓮大聖人もおおせですが、人間というのは、世の中へ楽しむために生まれてきたのです。苦しむために生まれてきたのではないのです。だが、苦しみということがなければ、楽しみというものはわかりません。

 ところが逆に、このごろの世の中は、苦しみのほうだけ感ずるようになってきたのです。金と権力に圧倒されて、楽しみのほうは感じられないのです。

 そこで考えなければならないのは、いまあなたのいうのは、楽しい折伏をしなさいといっても、折伏しなくてはならないと思うから楽しくないのです。しぜんに折伏がしたくなれば、楽しいのです。そこが問題なのです。みんな折伏しなければ功徳がないといわれているから、折伏しなくてはならない、折伏しなくてはならないと思う苦しみです。

 要するに、われわれが、朝起きて、おなかもへらないのに、ごはんを一生懸命食べなければならない、食べなければならないと思ったら、苦しむでしょう。ところが、腹がへると、うまくてしようがないのです。夜でも、さあ寝なければならない、寝なければならない、といったらどうなりますか。それを丑寅の勤行などには、頼まれなくても寝てしまいます。

 折伏を楽しくやれ、というのは、そういう意味です。よく、そこのところが、肚にどっしりすわれば問題はないのです。

 いま、あなたは、商売がうまくゆかないのでしょう。それだから苦しいのです。商売を一生懸命やりなさい。そうすれば、しぜんに楽しくなります。