戸田城聖全集質問会編 185 経済的悩みが大きくなった

 

〔質問〕 経済的な悩みで信心して二年になりますが、だんだんその悩みが大きくなっている状態です。

 

 四十歳ぐらいで、商売を熱心にやっていればだいじょうぶです。金はもうかるようになります。しかし、あまり若いうちから、金はできないほうがいいでしょう。五十ぐらいからでどうですか。

 このなかに、経済的に悩んでいる人もあろうと思うから。私の体験を一応話しておきましょう。私は、ヒバリのような運勢といわれているのです。それは、貧乏すると、どこへもぐったかわからないほど貧乏をしてしまう。それからひとたび景気がよくなると、どこまであがっていくかわからないのです。ですから友人は、私のことをヒバリというのです。

 四十四のとき、牢へはいる前ですが、昭和十八年です、そのとき六百万円もっていました。

どうやってできたか自分におぼえがないのです。それが牢から帰ってきたら、借金が二百何十万残っているのです。

 それを返し、そうとう財産をつくってから謗法をしたのです。私が天台流の講義をやったのです。それは、私が会長にならなければならない宿命なのです。だが、会長になるのがいやでたまらなかったのです。会長にならないというと、身は日蓮大聖人の弟子でありながら、講義は天台流の講義をしたのでは、心は天台の弟子です。それは大謗法です。自分の謗法というの は気がつかないものです。それでえらい損をしました。

 それで私は、昭和二十六年、会長になりました。それから、天台流の講義は絶対にいたしません。おかげで、どうやら金では今日は困りません。だから戸田は、創価学会をやっているから、私たちの寄付でのんきにやっているから、そんなことがいえるのだろうと疑ってはなりません。それはあなた方のほうから一銭ももらってはいません。ぼくに金をくれたという人がいたら出てごらんなさい。それは、あそこへ普請(ふしん)している大講堂の御供養のお金はもらっています。だが私がもらっているのではありません。あの建物がもらったものです。

 私がどうにかなったのは、五十二からです。四十四のとき、六百万ももったとき、たいてい五十から財産ができると人は話しているが、私は頭がいいから、人より十年早いのだと、いばっていたのです。ところが、パッとなくなってしまったのです。

 五十を越してからどうにかできてきました。だから、そうあわてる必要はありません。それから、いま、あなたのことばをきいていると、ひょっとすると、利息を払っている金を借りているのではないかと思うのですが、利息を払うということはこわいことです。「だいぶ利息をとったから、元金を利息でとったから、おまえの借金はまけてやる」という人は、どこにもいないのです。だから、もしあなたが借金をして、利息を払っているのなら、そこを打ち勝たなければならないのです。これがいちばん根本の問題です。このような場合、利息を払う人があるものですか。だから利息など払わないようにと考えるのです。これは、大事なことです。

 しかし、銀行の利息くらいは、払ってもよい。二銭か、二銭一厘の利息を払って、商売をやれないようなものなら、商売をやらないほうがいいです。ところが、まぬけな人は、日歩十銭だとか十五銭だとかいう利息を払うのです。そんなものを払って、商売などできるものですか。日歩十五銭とすると、年にして六割、月にすると五分ぐらいです。そんな金を払って商売などやれるわけがありません。

 ですから、いまの人が二年半も信心して、だんだん重苦しくなってきたというのは、手形をだして、たくさん利息を払っているのでしょう。それをやめるのです。二年も三年も信心していて、金ができないというのは、たいてい高利を払っているのです。このなかにも、そういう人がいるのではないですか。断じて高利など払ってはなりません。それをどうしたら払わないですむかということを考えるのです。そうして、そこからのがれれば、いやでもおうでも、謗法さえなければ、商売は一生懸命になるし、金はできるに決まっています。

 ところが、いくらもうけても、高い利息を払ったらどうにもなりません。それで、不熱心はだめです。折伏だ折伏だといって、商売もしないで、折伏に歩いている人がいるのです。この なかには、そのような人はいないでしょうね。折伏はすべきである。しかし商売を放ってまですべきではありません。

 四条金吾殿という方は、ひじょうにりっぱな方でありまして、本名は四条中務三郎左衛門尉頼基(よりもと)と申し、左衛門という官名が中国で金吾というので、四条金吾殿となったのです。日蓮大聖人様が打ち首になるときに、もし、日蓮大聖人様が首を切られたら、追腹切って死のうとした方です。それほど信心強盛な四条金吾殿が、折伏によって同僚からざん言されて、主君から不興をかったときに、日蓮大聖人様は、主君の御恩をけっして忘れず、今こそ武士の本分を尽くすよう指導されています。

 また、ある方が、お手紙を日蓮大聖人様にさしあげたのです。「このごろは忙しくて、法華経も読むひまがありません」と。そのときに、日蓮大聖人様の御返事が「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(御書全集一二九五㌻)、勤めが法華経である、商売が信心であるというのです。

 この商売に熱心でなかったならば、いまの方はどういう方か知りませんが、高利を払っているということは、不熱心ということです。そうでしょう。合理的ではありません。それをやめなければなりません。どうやってやめるかを考えなければいけません。その人、その人の事情によるからです。「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」、商売が信心です。その商売を熱心にやらないで、金ができないなど、不熱心ではありませんか。自分のもうけただけそこへ払うならまだいいですけれど、ひどいばかは、借りてまで利息を払うのです。

 そのようなばかなことをしていて、商売熱心だといわれますか。私は、商売熱心ではないと思います。不熱心です。どうか、熱心にがんばりなさい。