戸田城聖全集質問会編 138 世法と仏法

 

〔質問〕 世法と仏法との区別について、たとえば、信心している人とは思えない。利己主義の行動を見うけることがありますが。

 

 これは、めんどうな問題です。りっぱな信心だから行動もりっぱであるというようにはなかなかいきません。ここに紺のよい染料があっても、染地によって違ってきます。木綿とスフとは上がりが違います。現代の人間は、スフのほうが多い。よく染まるようになるまでには、時間がかかります。半年や一年では、その人のずるいところはなおりません。それが人間であって、そうでないのはおばけです。そこに競争が起こり、そのなかで堂々と生活するまでには、よほどの信心が必要であります。われわれの性分は変わらないが使い方が変わり、ずるい性分は、よい人と交るときにはでてこなくて、ずるい人間同士のときは、大きくでてきます。おこりっぽいのも同様であり、これが調和されるには時間がかかります。

 各人よく自分を見つめてみなさい。末法に文底の仏法が現れ、上行菩薩が行じて民衆を救うというが、末法にはおこりっぽいのや、やきもちやきや、疑いっぽいのや、ばかな人間が生まれてくることになっており、一応の仏法では救えません。そこで仏様は御内証の無作三身の姿を、われわれの前に現され、やきもちやき、憎しみ等の調和をとってやろうというのであります。そこで、世法は仏法とたて分けながら、渾然一体となっていくのであります。