戸田城聖全集質問会編 124 天照太神と正八幡大菩薩

 

〔質問〕 初座の御観念文のなかに天照太神、正八幡大菩薩というようなことばがありますが、

鎌倉の鶴岡八幡宮を、その八幡と考えてょいでしょうか。(現在の勤行要典には「天照太神・正八幡大菩薩」は明記されていませんが、「惣じて法華守護の諸天善神」のなかに含まれます)

 

 ほんとうは、あそこに正八幡がいなければならないのです。だがいまはおりません。だから鎌倉の八幡と考えては困ります。東の方を向いて、初座の御祈念をするときの正八幡大菩薩、天照太神は己心の正八幡であり、己心の天照太神で、それは大宇宙の生命のなかに暮らしているのです。だから生きている正八幡と天照太神に呼びかけているのです。

 これは、こういうことになっているのです。わたしたちの生命というものは、大宇宙の生命と同じものなのです。ですから、わたしの生命、あなた方の生命のなかには、死んでいるものは一つもない、みな生きているのです。これはよくいう話ですが、ここに精巧なラジオがあってアメリカの放送もドイツのも、韓国のも台湾のも上海のも聞けます。だがあるなら聞かせてみろといっても、ラジオがないと聞かせるわけにはいきません。われわれの耳でもって、聞こえていたら気違いになってしまいます。これが聞こえないのでありがたいではないですか。

 ないといえばない、あるといえばある、これを「空」というのです。ですから、地獄の生命が、宇宙が生命なら、だしてみろといってもだせますか。だせない、そんなのがいつもでてこられたらたいへんなことになります。そうすると、大宇宙には家のおじいさんの命も、おばあさんの命も存在している。おじいさんとおばあさんが手をつないでいるなどと、そんなことはありません。どこにいるかさっぱりわからないのです。あたかもラジオでは、この線がイギリスで、ここがアメリカだというふうに分けていません。アメリカのことばが、ドイツのことばにおんぶしているか、そんなわけでもありません。韓国のことばと中国のことばが手をつないで歩いているわけでもないのです。それと同じなのが大宇宙の生命なのです。

 どこにだれがおり、どこに何があるというわけにはいきません。ところが、ここに精巧なラジオをもって、イギリスの放送をしている電波に合わせれば聞こえるのです。それと同じで題目を唱えて、それで御祈念をはじめると、わが心に、生命に住む正八幡大菩薩や天照太神と、大宇宙の天照太神と正八幡大菩薩が感応して、あなた方の願いも聞くということになっているのです。ところが、鎌倉の八幡宮も、あそこには八幡大菩薩がおりません。そうして、あそこには邪神が住んでいるのです。ですから、あそこへ行って御祈念を始めると、あたかもラジオをかけたと同じようになってきます。大宇宙の天界の邪神が、そのままこちらに感応してくるのです。だから拝んではいけないというのです。

 いよいよ広宣流布して、広宣流布とは日本をみな信仰させるという意味ではないのです。信ずる者も信じない者も、本門戒壇が日本民族にとって大事だと納得した時なのです。国教にするとかの問題ではありません。本門戒壇は日蓮大聖人様のおおせのとおり、建てなければならないのだと納得したとき、はじめて日本の国に、あらゆる大宇宙に住む正八幡大菩薩や天照太神がおのおのの祈りをあげる場所へいっしょになって帰ってくるのです。

 そのときにこそ、正八幡大菩薩も天照太神も国を護る力を現しまして、国家のために働きますから国が平和になるのです。これが仏法哲理であります。