戸田城聖全集質問会編 95 なぜ五老僧は御本尊を粗末にしたか

 

〔質問〕 「富士一跡門徒存知の事」のなかで、日興上人様が、五人(日昭・日朗・日向・日頂・日持)と義絶する理由のなかに、その五人が、人が死んだ場合、御本尊を曼荼羅だといって、死んだ人にかけて埋めたり、ひじょうにおそまつを申し上げているから、という意味のことが述べてあります。それについて、他の御消息文を読みましても、日蓮大聖人様がいかにこの御本尊様というものを大事にされていたかということがわかると思うのです。

 そうしてみますと、五老僧といわれる方は、日蓮大聖人様につねにそうとう訓練を受けてこられた方ではないかと思うのです。そのような方が、どうして、日蓮大聖人の御本尊様をおそまつにあつかったかと。それがどうしてもわからないのですが。

 

 じつにいい質問をしてくれました。

 この問題についていわなければならないことは、二つ三つ四つとありますが、第一に五人は、日蓮大聖人様のおそばで給仕が足りなかったのです。みな日蓮大聖人様に服して、南無妙法蓮華経ということをひろめにかかりましたが、おそばでほんとうの、真実を聞く時間が少なかった。これが一つです。

 それから、日蓮大聖人の仏法のゆき方を、おそばですっかりみないからわからない。なぜかならば、第一番に日蓮大聖人様がおおせあそばしたのは、南無妙法蓮華経へいれるまえに、法華経、法華経とおっしゃったのです。これは「教相・観心」という二つに分けていくことが大事です。ところで、当時の五老僧は、教相の面においてみな服したのです。そのころの学者は、みなそうでした。法華経ということは知っているけれども、南無妙法蓮華経の真実がわからない。日蓮大聖人様は、まず南無妙法蓮華経ということをしみこませたのです。

 それから佐渡へおいでになって、御本尊がご出現になるわけです。そして、佐渡から帰られてから、未来のわれわれにたいして、戒壇の建立と、この三つ(三大秘法のひろまる順序)に分けていらっしゃるのです。そうなると、佐渡以後の本尊建立については、五老僧はわからないのです。ですから、御本尊とはどれほどのものかということは、「常随給仕」と申しまして、そばについて離れなかった御開山日興上人しかわがらなかったのです。これを「唯授一人」といいまして、ただ一人しかわがらぬのです。

 いまのように、交通機関が発達しておりませんし、日蓮大聖人様の化導の方法が、題目、本尊、戒壇と、こうでているのですから、いっぺんにだしてくれたら助かったのにと思うのですが、南無妙法蓮華経とこういうことを聞いたことがない人たちに教えるのですから、南無妙法蓮華経とわかっただけでも感心です。しかも、地方在住の棟梁なのですから、南無妙法蓮華経だけ覚えて、御本尊様を覚えないでしまったのです。それゆえに、御開山様はお叱りになったのです。「南無妙法蓮華経がわかったら、御本尊様がわからないわけはないではないか」と。

 あのころ。天台宗や念仏宗などでは、仏・菩薩の絵図を死んだら棺の中へ入れる風習があったのです。阿弥陀とか大日如来をくっつけてやるというわけです。ですから、日蓮大聖人様の御本尊を平気で棺の中へ入れてしまうのです。それで、御開山様が「もったいない、ぜんぶ御本尊様は集めろ」と、こういうご命令をだして御本尊を集めたのです。

 だから身延なんか、なんにもないわけなのです。身延にある本尊は、彼らの仲間で三千円で買った本尊があるだけです。このあいだ買ったのです。だから、題目論はわかったのですが、五老僧は本尊論がわからないのです。そこが、「三重秘伝」の奥義なのです。いま、学会で三重秘伝という。むずかしいことをいっているのは、そのわけなのです。五老僧は、それで御開山様に叱られたので、反対したのではないのです。「富士一跡門徒存知の事」というのは、そういうふうに読まなければならないのです。

 ましてや、五老僧が、「戒壇論」なんかわかるわけがないのです。そういっては、「また戸田の野郎、景気のよいことをいう」と思うかもしれませんが、七百年後にでて、戸田城聖がまさに解決せんとしているのであります。