戸田城聖全集質問会編 89 折伏した人がみなおかしい

 

〔質問〕 私の折伏した人たちは入信後、御本尊様を焼いたり返したり、持っていても巻いていたり、そういうような人ばかりですが、これはどうしたらよいでしょうか。

 

 それは折伏するときが悪いのです。折伏の仕方、あなたの考え方が悪い。この御本尊様は、ひじょうにすごいのだということが、あなたの腹のなかにはいっていないのです。そんなことをした者の末路はかわいそうです。かならずろくな死に方はしないのです。六軒も七軒もしなくてもいいから、一人でょいから、ほんとうにありがたいということをわからせて持たせなさい。そんな焼いたり、ただ飾っておいたり、返したりしたら、その人たちは、ろくなことはありません。この御本尊様は賞罰がきびしいのです。

 ですから、この法華経の愛は、母親の愛ではないのです。厳父の愛というのです。法華経というものは、けっして甘やかした愛ではないのです。子供をきびしく叱れるぐらいの教えをしなかったら、子供にねだられることを何事でもかなえてやることはできないのです。親にほんとうの力があり、威厳があればこそ、子供にも思うようにしてやれるかわりに、間違ったら、 きびしく叱れるでしょう。

 折伏するときに、きちんといいなさい。「この御本尊様をそまつにしたら、たいへんなことが起きるから」と。「邪宗というのは、このように悪いのですよ」と。邪宗が悪いことをよく説明して、謗法払いしなければいけないのです。「それをはずしてしまいなさい、御本尊様を持ってきてやるから」などと、まるでとりかえるみたいな気持ちでやっているのです。だから御本尊様をそまつにするのです。そのような考え方で折伏したら、罪つくりです。きちんというのです。そして「いやならやめなさい」と。このようにありがたいのですから、御本尊の功徳を賛嘆し、お叱りのあることもきちんといって、持たせなければいけません。

 なかにはこのような話を聞いた。「御本尊様をいただくときにだした三百五十円返してくれ」と。じょうだんではありません。そういう折伏をするから、ろくなことはないのです。

 折伏というのは。命がけです。「一心欲見仏、不自惜身命、時我及衆僧、倶出霊鷲山」これが、御本尊を与えるときの覚悟です。「一心に仏を見奉らんと欲して、みずから身命を惜しまず」- そのように真剣な、身命を惜しまないという決意が必要なのです。「時に」とは末法、「時に我及び衆僧ともに霊鷲山に出ず」- そうしてこそ、初めて仏様にお会いできる、すなわち、御本尊を受持することができるのです。これは折伏する方にもされる方にも通ずることです。ですから、題目を唱えさせるときには、「一心欲見仏、不自惜身命」で折伏しなければならないのです。

 それを「拝みなさい、いいんですよ。これをはずしましょう。」そんなだらしない折伏ならしないほうがましです。