戸田城聖全集質問会編 84 なぜたくさんの宗教があるのか
〔質問〕 宗教というものは、どうしてたくさんあるのでしょうか。
それは、自分なりに悟った教えを説く人がたくさんあるからです。人生観というものは、みな違うではないですか。
「世の中は金で、金さえあれば、人生を左右するものだ。人生は金なり」とたてる人もあります。その人は金をためよう、金をためようとします。自分が金で苦労して、そうして一生を
通じてくれば、金こそ人生を幸せにする大もとだと、こういうのです。
ところが「人生は同じではない、最後は真心だ」という人もあるのです。自分が真心をつくしてあげて、認められて出世した人は、真心だという。
いろいろの経験をとおして、人々に説く人がたくさんいるから、たくさんの宗教ができるのです。そのなかで、比べて、大乗教と小乗教がでてくるのです。
ある一部分の人にしか通じないものを小乗教というのです。みんなのものにあてはまるものならば大乗教なのです。悟りのなかにも、マホメットの悟りもあれば、キリストの悟りもあります。どれがいちばん正しいかは、文証・理証・現証で比べてみる以外にはありません。
どうしても、自分の経験から説くものですから、たくさんのものがでてきます。経験はみな、千差万別です。不完全な悟りもあります。不完全な悟りだったならば、これはだめなのです。
だけれども、その信仰は、日蓮正宗を除いては、ぜんぶ不完全です。
完全な悟りは、釈尊と日蓮大聖人様しかないのです。「在世の本門と末法の始は一同に純円なり」(御書全集二四九㌻)と。あとの人たちは不完全なのです。
このように比較検討して、いちばんいい宗教を選んでいくのが、われわれの立場なのです。
信仰をたくさん説くのは、ほかのものと比べて、自分のほうが悪いということが、わからないから説くのです。おれのほうがいちばんいいなどと説くのは、増上慢の人が多いのです。
増上慢ではないけれども、こういう悟りをもったけれども、さて、釈尊はなんていったのだろう、どちらがいいのだろうか、それでは釈尊のほうが偉い、となれば、釈尊に帰依してゆくのがほんとうでしょう。それなら一つになるでしょう。釈尊より、おれのほうが偉いと思うから、二つになってしまうのです。日蓮よりおれのほうが偉い、などというのがたくさんいるのですもの、だからたくさんの宗教がでてくるのです。増上慢からでてくるのです。末法には、とくに増上慢が多いと、釈尊は予言しています。
(戸田城聖先生が師匠ならば、「創価学会は私がつくったのだ」と本幹でも言った、池田大作先生、あなたの言葉は増上慢そのものではないですか。 創価学会の皆さん、戸田先生の言葉の一言一言を池田大作先生の話と比較してみてください。)