戸田城聖全集質問会編 66 なぜシキミを供えるのか

 

 〔質問〕 日蓮正宗では色花を仏壇にお供えしないで、なぜシキミをあげるのでしょうか。

 

 法華経をお読みくださると、よくわかりますが、インドの国には香木がずいぶんたくさんあるのです。黒檀、紫檀とか栴檀とか、とくに栴檀などというのは、香木として最高のものとされていたのです。

 それで仏をよろこばせるために沈香というものをたくのです。そしてまた、鐘を打つということも、仏をよろこばせるための音楽の一つになります。ですからこの客殿で、よく合図で打ちます。鐘は七五三に打っているのです。

 このように、釈尊の仏法においても。まず香木をもって仏をよろこばせる、こういう一つの意義があるわけです。日本の国において香木という、いわゆる線香の材料になるものですが、これはシキミしかないのです。日本には香木はシキミしかないのです。それで日蓮大聖人様以来シキミを使うことになっているのです。これが第一です。

 次は、仏法というものは、生命の永遠を説いているのです。寿量品なんか読むと、しつっこいほど生命が永遠だといっているのです。これ以外なにもいっていないではないですか。それで死ぬのは方便だといって、人間の生命というものは永遠であると、これを主張しているのです。

 ところが、シキミ以外の色花は、咲いたときの姿はいいけれども、すぐ散ってしまう。シキミだけは、ことに梅雨時など、折っておいても芽が出てくるのです。生命の永遠ということを代表しているのです。

 ですから、ほかの宗教はほんとうのことを知らないから、色花などを使いますけれども、日蓮大聖人様の仏法は、日蓮大聖人様が仏法に透徹していられたのですから、色花などは使うわけがありません。

 これは、ついでに質問外の話までするのですけれども、衣でもごらんなさい。糞衣と申しまして糞の衣と書くのです。これは、インドでは虫がひじょうに多いのです。それで虫の糞が、すてた布につくのです。これを洗濯して、僧侶が着るものでありますから。いまの日蓮正宗のお坊さんの着ているようなウス墨の色が、仏法を知る僧侶の衣になっているのです。釈尊の時代にはみなあの色の衣を着ていたのです。欲というものを断つために、あの衣を僧侶は着ることになっているのです。しかし、紫の衣だとか、赤の衣だとか、黄の衣を着るのは、仏法をにごしていることになるのです。

 むかし、天皇が紫の衣を賜ったといいますが、あんなことは日寛上人様はばかだといっていますなぜかというと、中国に則天武后という男好きの皇后様がおりまして、皇帝が死んで、そのあとを自分が采配を振ったのです。そのうちに坊主の男妾ができたのです。この男妾をば、大臣級の出る会議のなかへ出したい、それにはかっこうをつけなければならない、りっぱそうに着飾らなければならない、そこで紫の衣をつくってバンドをはめさせて連れて出したのです。これが紫の衣の起源です。そんなもの、恥ずかしくて着られるか、というのです。