戸田城聖全集質問会編 37 方便品の十如是を三回読むわけ

 

 〔質問〕 方便品のあとで十如是を三回読むわけを教えてください。

 

 それはかんたんなので、こういうことはめんどうではありません。十如是は方便品にあるのです。これを迹門といいます。これを三べん唱える意味は空・仮・中の三諦(さんたい)に唱えるのです。

空仮中の三諦などというと、ちょっとわからないでしょうが、これは空諦、中諦、仮諦と、仏法哲学において、この世の中の実相がどういうものか、われわれの命がどういうものであるか、ということを考える考え方を根幹として、「空仮中の三諦」というのがあるのです。これは、天台大師の師匠である南岳大師が考えだした哲理なのです。

 このなかで、私がこうして生きているのは、仮の実体です。私はこのままかといってもそうはいかないでしょう。もう十年もたって、私がもし生きていて六十七歳にもなったら「先生、ずいぶん変わりましたね」ということになるでしょう。しかしこれだって、私は二十歳のころは美男子だったのです。そしたらその美男子と、いまのように美男子でないのと、どちらがほんとうなのか、それはどちらもほんとうです。ですから仮の実体というのです。いまのは仮の実体としか見えません。これを仮諦といいます。

 空諦とは、あるといえばある、ないといえばない、こういうところのものを有無にかかわらず、真の実在をば空諦というのです。私の生命も空諦です。おまえはおじいさんの時があるといえば。それはいまはないでしょう。たしかにおじいさんではない、私は青年です。しかしおまえは赤ん坊の時はなかったかといえば、なかったのではない、あったのです。そうなると生命は空であります。

 それであって、戸田城聖は中道法相、戸田城聖は厳然として永遠にそなわっている、これが中諦であります。

 この三つのたてまえから、一念三千の法門を読むについて、十如是を空仮中の三諦に読むのです。それで三べんくり返すのです。

 それから自我偈は三度読むことになっているのです。それは法・報・応の三身で読むのです。法身、報身、応身の三身に、自我偈は三度読むことになっています。たいてい一度しかやらないのです。しかし、一度でも長いと思っているのに、三度やりなさいとなったら困るでしょう。だからここでは理屈だけ教えて、やりなさいとはいいませんから、安心しなさい。