戸田城聖全集質問会編 29 御本尊不敬は罰を受けるか

 

 〔質問〕 御本尊様をそまつにした場合、いろいろの罰を受けると聞いています。たとえば(きり)で穴をあけたりした場合、七つあければ、それと同じように、自分が与太者にどうとかされるとか、夫が傷を受けるとかという話が、一部いわれておりますが……。

 

 御本尊様をおそまつにするということは、仏罰をこうむります。しかし、あなたのいうように、御本尊様をそまつにしたら、愛する夫がヤクザに乱暴されるとか、御本尊様に七つ穴をあけたら、自分が七つ穴をあけられるとか、そういうふうに、さもわかったようなことをいう人はおかしい。そんなばかなことはありません。

 

 それなら仏罰はないか。あります。ありますが、その仏罰は、こんなものが出るとか、あんなものが出るとかは、いえないのです。ただその人が、幸福になれないということはたしかです。この御本尊をそまつにした人は、ひどいものです。その貧乏な姿を、見せにきます。不幸になった姿を見せにきます。それを、乱暴されるとか。なんとかというのは軽率です。そういう場合もあるかもしれませんが、それは、その人のもっている不幸をば、とくに現してくるのですから。どういう形で出るとはいえません。

 御本尊をそまつにした人は、ひじょうに気の毒です。じつに気の毒です。ですから、かわいそうだと思って、よく、こんこんと改めて信心するように、教えておけばよいのです。あまりくどく、御本尊様をそまつにした者を追いかけてもだめです。いまに姿を現してきますから、そのときに折伏してあげればいいのです。

 私は、いまから二十五年前くらいに、三人の方に御本尊をお持たせした。女の人です。しかもそれは常住御本尊様でした。二人の人はごくまじめに信仰を続けてこられた。一人は、ともかく聞くところによれば、一億からの財産をつくられたそうです。もう一人の方も、りっぱな生活をしておられます。いま一人の人が御本尊様をそまつにしています。そまつといっても、不敬したわけではないのです。ただ拝まなくなってしまったのです。ありがたいと思わなくなってしまったのです。

 どうですか、二十二、三年たってから、一昨年でしたが、私のところへ、御本尊を持って、出てきたではないですか。私はなにもいわずに、すぐ「あなたは幸せですか」といった。「幸せではない」という。もう。それこそみすぼらしい姿なのです。私はまえにその人を、総本山での夏季講習会にいっぺん連れていったことがあるのです。そのときの喜びというものは、ひじょうなものでした。年をとった人ですが、女学生にかえったみたいな姿でした。私はその姿をまざまざと目で見ているのです。「あなたは、あのときの幸せをすっ飛ばしてしまったね」といってあげました。もうぬけたみたいな顔になってしまっているのです。そして、蹌踉(そうろう)としてやせ犬みたいなかっこうで、私の前へわざわざ御本尊を持って現れたのです。これは恐ろしいものです。ほんとうに恐ろしいものです。

 そういうふうな現証は、かならずあるのです。さきほどのように、どうなるこうなるなどと決定したようなことは、いうものではありません。ただ仏罰の恐ろしいというだけは、いっておかなければなりません。

 ある男ですが、これは御本尊を受けて、少しも拝まないで、ゴミだらけにしておいた。それが、犬のような生活の姿を、わざわざ私に見せにきた。ひどいものです。だからじっと見ていなさい。いらないことをいう必要はありません。ただひとことだけ「御本尊をそまつにしたら仏罰がでますから、よく考えておやりなさい」とやさしくいって、現証を見ておきなさい。それが一つの折伏です。罰はかならずでます。あたるのではない。でるのです。罰というのは、その人の生命の状態が生活に現れるのですから「罰をあててやるぞ」などというものではありません。