戸田城聖全集質問会編 24 折伏した人が何回も不敬
〔質問〕 私が折伏した人が、御本尊様を何回も不敬しました。今後はよい折伏ができるでしょうか。
これは難問です。何回も不敬したというのでは。よく罰論をいっておきましたか?(いいません) それがあなたの悪いところです。御本尊様には功徳があります。また反対すれば罰があります。罰はあたるのではなくて、自分の生命からでるのです。利益も罰もでる法則があってでるので、自分の力ではどうにもなりません。御本尊様を拝み、題目を唱え、折伏をすると、それが原動力となって功徳がでるのです。初代会長牧口先生は、罰論専門で利益は後まわしでした。私は利益を先にしています。これが初代と二代の違いです。
初代会長が罰論をいったとき、罰論は創価学会がかってにつくったものだといって、坊さんのあいだにもずいぶん非難がありましたが、これは創価学会がつくったものでもなんでもなく、御本尊様がきちんとおっしゃっているのです。うそだと思ったら、御本尊様をよく拝んでみなさい。
右のかたには「若し悩乱せん者は頭七分に破れん」と罰論が、きちんとあります。また左のかたには「供養すること有らん者は福十号に過ぐ」と功徳論が厳然としてあるのです。ゆえに御本尊様をそまつにすると罰があるのです。このことをあなたがはっきりいっておかないからいけない、罪はあなた自身にあるのです。
いま、たとえてみるに、清水に汚物を少し入れます。少しだから飲みなさいといわれて飲めますか。これと同様に、信心は清らかな法水です。疑ったりそまつにすれば、法水をぜんぶ汚してしまうのとまったく同様なのです。