戸田城聖全集質問会編 18 御本尊が久遠の儀式であるとは

 

 〔質問〕 私たちが拝んでいる御本尊様のお文字が、久遠の儀式であるということをうかがっていますが、どういうわけでしょうか。

 

 一応は久遠の儀式の姿が、ここに現されているのです。しかしそれは、そのまま日蓮大聖人様のご生命であり、大宇宙の生命であり、われわれの生命ではありますけれど。それが一応の形は、南無妙法蓮華経日蓮とあります。

 南無妙法蓮華経とは久遠元初の自受用報身如来、日蓮とはその久遠元初の自受用報身如来と同じ方です。ですから南無妙法蓮華経日蓮とあるのです。南無妙法蓮華経仏とはすなわち日蓮なり、と読んでもいいのです。

 日蓮大聖人様が真ん中にデンとお坐りになっているのです。その右側に多宝如来様が坐っています。左側に釈迦牟尼世尊が坐っています。そうするとこの後のほうに、ずーっと分身の諸仏が集まっています。梵天にとどくほどずーっと階段のようになっているのです。たとえていうと、国技館の座席みたいになって集まっているのです。

 そのまえには地涌の菩薩の棟梁、上行菩薩、無辺行菩薩が多宝の方に向かいあっているのです。こちらのほうには安立行、浄行様がお坐りになっています。その地涌の菩薩としてわれわれが雲霞のごとくずーっと並んでいるのです。

 われわれもそこへ坐っていたのです。ボヤボヤして後のほうで居眠りなんかしていた人が、いまになって教学がわからないのです。

 その次には、薬王菩薩、文殊、それから弥勒、こちら側には文殊の次は普賢です。観音もきているし、その他の菩薩がずーっと並んでいます。その次には、舎利弗、目犍連、そのほかに声聞階級が並んでいます。その他の天、竜、夜叉、乾闥婆、迦楼羅、摩喉羅枷、緊那羅という連中が雲霞のごとく並んでいるのです。そうして、南無妙法蓮華経と唱えた儀式が、御本尊の儀式になっているのです。

 だから、あなたが題目を唱えるのは、その地涌の菩薩のなかの一人として、あなた方はいま唱えていると思っているでしょうけれども、じつは久遠元初以来、日蓮大聖人様に向かって題目を唱えてきているのです。そういうわけです。