戸田城聖全集質問会編 7 佐渡始顕の本尊

 

 〔質問〕 佐渡(さど)()(けん)の御本尊様について話してください。

 

 佐渡始顕の御本尊様は御直筆はないはずです。しかし、日蓮大聖人様が、佐渡で初めて御本尊様をおしたためになったということは正しいのです。もっとも、そのまえに、本間六郎左衛門におしたためになった御本尊様がありますが、これは南無妙法蓮華経だけです。それが寺泊(てらどまり)かどこかに一幅あります。しかし、いまのような久遠元初(くおんがんじょ)自受用報(じじゅゆうほう)(しん)如来(にょらい)の当体であり、中央の南無妙法蓮華経という、その仏の脇士として、釈迦多宝の二仏がおつかえする形の御本尊というものは、佐渡で初めてあらわされたものです。

 ところが、佐渡始顕の本尊が有名になったのは、田中智学君からです。田中智学という人はご承知でありましょうが、一派をひらいたような気分でいた人です。あれは「横浜問答」(明治十五年、日蓮正宗と蓮華会との問答)でさんざんやられたのです。それで、東京にいられなくなって、大阪へ逃げた。ところが大阪の蓮華寺の信者も強いので「ようし、こい」と待っていた。そこで大阪にもおれなくなって京都へ行ってしまった。京都でいろいろやったが、初めて三大秘法ということを覚えた。それで東京へ帰ってきて、今度は佐渡始顕の本尊といいだしたのです。そして「本尊は佐渡始顕によるべし」といいだしたのです。

 御本尊にもいろいろありまして、桑名の寺にある御本尊は左不動と申しまして、不動明王は右にあるべきなのに日蓮大聖人様は左におしたためになられています。それから臨滅度(りんめつど)の本尊と申しまして、日蓮大聖人様がお亡くなりになったときにおかけになって拝んだ本尊があります。これがほんとうの本尊だなどと身延でいいだしています。日蓮大聖人様がお亡くなりになるとき、魂がとびこんだから、その本尊がほんとうだといっているのです。とびこんでもいいでしょう、しかしこれが身延にあるかというと、これがないのです。ただ大石寺の一閻浮提の本尊がいやなものだから、臨滅度の本尊はいい、などといいだすのです。これは鎌倉にあって、その写しが池上にあるといっています。

 よく身延は紫宸殿(ししんでん)御本尊がだめだといいますが、自分の所には何もない。だから「大石寺はだめだ。あっちにある、こっちにある」といっているのです。

 佐渡始顕の本尊は、御本仏が出現をして、御本尊を顕し、この本尊をもって一切衆生を救っていくことを三世十方の仏菩薩に、宣言したものですから、対告衆がない。ただ拝み奉るだけなのです。

 田中智学は一宗をたてても、自分の本尊がない。そこで佐渡始顕の本尊ということをいいだしたのです。ちょうどあいていたところをつかんだみたいなものです。そしていまの田中智学派の本尊としたのです。ところが田中智学のかたみともいわれ、相棒ともいわれていた山川智応は、なかなかの学者なのです。この人の書いた書物のなかに、いまいわれている佐渡始顕の本尊は、ほんものでないとはっきりいっているのです。これではどうにもなりません。

 この本尊は、どういう本尊かというと、徳川時代に、佐渡から出開帳というのをやったのです。出開帳というのは、佐渡まで本尊を拝みに行けないから、それをもってきて、東京で拝ませて、賽銭を集めて帰ろうと、金もうけにかついでやってきたのです。ところがあんまりみいりがないので、帰れなくなりましたので、質に入れて帰ったのです。そのことが山川智応の本に書いてあるのです。それを何とかいう大名がうけ出して、それで、流れ流れたのです。

 もし、ほんものであるとしても、質屋へはいったのでは、もったいない。でもほんものの御本尊が質へはいるわけがありません。