戸田城聖全集質問会編 5 大御本尊の対告(たいごう)(しゅう)について

 

質問 一閻浮提総与の御本尊様と、弥四郎(やしろう)国重(くにしげ)という方とは、どういう関係でしょうか。

 

 邪宗のものが「大御本尊様の対告衆が弥四郎国重となっているが、法華講中弥四郎国重という方は存在していない」という。これが一般の断定なのです。

また、これを熱原三烈士の一人となぞらえている人も、学説上あります。南条殿の子供と断定している人もあります。だが、だいたいの学説においては架空の人ということになっています。これは私は、もっともなことだと思います。

 なぜ、日蓮大聖人様が「法華講中弥四郎国重」として、弥四郎国重を大御本尊様の対告衆にしたかという問題なのです。これは、よほど仏法に通達してこないとわかりません。しろうと論議だと納得できないことです。少なくとも、信仰に透徹して、仏法の奥義がわかれば、ごくかんたんな問題なのです。

 なかにはこういう議論を立てる者もいます。「大御本尊様は日興上人に授与したのであるから、なぜ対告衆を日興上人になさらないのか」と。

 それは、日興上人を対告衆としたのでは、一閻浮提総与とはならないのです。この一閻浮提総与の御本尊すなわち南無妙法蓮華経というものは、全世界にひろめる人、まずこれを日本にひろめて戒壇を建立する人に授与すべきものなのです。

 ここで問題が一つあります。そのまえにいっておきますが、私がおどろいたことが一つあります。それは、私が東之坊を創価学会として総本山へご寄進申し上げたときのこと、僧侶から話がありまして「仏器から御厨子(おずし)までぜんぶ私がお引き受けしますから、あとはよろしく取り計らっておいてください」といったのです。そうしましたら、東之坊の御本尊の対告衆は私になっているのです。ほんとうなら東之坊に御僧侶がいらっしゃるのですから、その御僧侶へお下げ渡しになったらいいはずでしょう。「私の名前でやってください」といったのではないのです。しかるに、御本尊お下げ渡しの原則によって、私にお下げ渡しになっている形になっています。しかし、あの御本尊様は東之坊の御住職の、身にあてたまわる御本尊です。ただ対告衆が、私であるというところを、よくよく考えてもらわなければなりません。

 そこで、弥四郎国重の問題ですが、対告衆に一連のものがあるのです。まず法華経の読み方がわかっていれば、弥四郎国重の問題もわかってきます。法華経がりっぱな経典であることは、だれでも認めています。そのなかに書いてあることを、まず認めなければなりません。ところが日蓮大聖人の御書にも、序品八万の大衆ということばが使われていますが、序品八万の大衆はどうなるでしょうか。

 経文には、そこに集まった人の名前が記されています。まずはじめは舎利弗、神通第一の大目犍連(もつけんれん)、その他の阿羅漢(あらかん)を集めて万二千人となっています。()薩摩(さつま)(つかさ)(さつ)八万人、摩詞波闍波提(まかはじゃはだい)比丘尼(びくに)眷属(けんぞく)六千人、名月(みょうがつ)天子その他の天子の眷属数万人、跋難陀(ばつなんだ)竜王などの眷属、これも、何万人、かくして集まった阿闍世王の眷属何千人。ソロバンにおいてみたことはないのですが、(りょう)鷲山(じゅせん)へ、ざっと二、三十万集まっています。そうしたらどうでしょう、そんなにたくさん集まれますか。一つの都ができてしまうではないですか。しかも八大竜王もきています。阿修羅王もきています。そんなものがきているわけがないではないですか。かりに集まっても便所の設備だけでもたいへんです。八年間もそんなに集まって、いくら釈尊が仏でも二十万、三十万に聞かせる声がありますか。そうなってくると霊鷲山に集まったというのは、おかしいではないですか。菩薩が八万人も集まるわけがないではないですか。総本山に七万人の人が御遷座式(せんざしき)に集まっても、あの騒ぎです。いま三千人集まってもこの騒ぎではないですか。山の中です、広場ではないのです。そうなったら仏法上の根幹をなす「序品八万の大衆」はどうなりますか。日蓮大聖人様は、はっきりとお認めになっています。しかも事実の研究の上からゆけば、そんなものはありません。ないものを書いた法華経は、信用できなくなるでしょう。もし法華経がだめだとなれば信ずるものがなくなってしまいます。

 それは何十万でもかまわないのです。なぜかならば、釈尊己心の舎利弗であり、釈尊己心の八万の菩薩であります。釈尊己心の提婆達多であり、釈尊己心の八大竜王であります。死んでそこにはいないはずの舎利弗にも、己心の舎利弗なるゆえに話しかけえたのです。釈尊の胸に集めた何十万の人、それを対告衆として法華経を説いているのです。生命の実相をはっきりしなければ、法華経の序品から読めなくなってきます。

 よく「法華経を読みました」などという人がいますが、おかしくてたまりません。読めるものですか、読めるわけがありません。大御本尊を信じないで、読めるわけなんかありません。

もし、ありとすれば、大御本尊様を信じないまでも、大御本尊を知りぬいていえなかった竜樹、天親、天台、妙楽はこのかぎりではありません。読めていたのです。

 その意味からいきますれば、弥四郎国重は法華経をひろむべきいっさいの人を代表した人物、日蓮大聖人己心の弥四郎国重なのです。実在の人ではない。実在の人でなくても、いつこうさしつかえないのです。

 歴史的に調べて実証して、こうあらねばならんなどというのは、科学ということばに迷った人のやり方で、仏法哲理の上からいけば、日蓮大聖人己心の弥四郎国重に授与あそばされたのですから、日蓮大聖人のお考えとしては、もっとも理想の人格、法華経の行者の弟子として、理想の人格の人物として、世の中へおさだめになって、その者にお下げ渡しになっているのですから、そんなこと、実在であろうとなかろうと、考えなくともいいことになってきます。

 第一、智者の舎利弗の議論にたいして、寿量品を立て、生命を捨てて守護する信者を代表して、己心の弥四郎国重を日蓮大聖人は立てられたのです。諸君も、日蓮大聖人己心の弥四郎国重になりきりなさい。

 これは私はたくさんの人のなかでは話しません。もしこれを話して、あなた方がこれを人に話していい負かされたり、自分の心に疑いを起こしたりしたならば、かならずや罰を受けねばなりません。それほど重大な本尊論の問題でありますから、めったに話したことはありません。ごく側近の者に話したことがあります。本日はもしこれをいわなければ、なおさら疑いを起こす時期にきているように思いますからして、やむなく問いにまかせて答えました。これは絶対にまちがいのないことですから、信じていただきましょう。