戸田城聖全集質問会編 4 弘安二年十月十二日の大御本尊

 

質問 弘安二年の十月十二日の御本尊様について教えてください。

 

 弘安二年の御本尊は、本門戒壇の大御本尊と申し上げ、日蓮大聖人が出世の御本懐として、弘安二年十月十二日に御図顕になられたのであります。聖人御難事に、建長五年より、余は二十七年にして出世の本懐を遂げるとおおせあそばされています。

 

 日寛上人は、大御本尊様について「就中(なかんづく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提(世界)総体の本尊なる故なり」(観心本尊抄文段)といわれています。

 

 さらに、日寛上人は、大御本尊の功徳について、「これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆威くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂『正境に縁すれば功徳猶多し』とはこれなり」(観心本尊抄文段)とおおせであります。

 

 このようにすばらしい大御本尊が、七百年の昔から日本に厳存し、今日では奉安殿に(現在は正本堂に)御安置されているのです。

 これに対しては、なにものも絶対疑っては相なりません。いま、安永弁哲が、偽作論のなかで、第九代の日有上人様が板曼荼羅を偽作したといっている。これが、他宗の間違った議論なのです。

 

 これにみな迷う。総本山で、明らかにすればいいのに秘密主義なのです。それは「時を待つ可きのみ」(御書全集一○二二頁)というご命令をそのままうけていらっしゃるから、正直なのです。総本山ぐらい正直なところはないのです。

 

 日有上人が御本尊を偽作したというのは、身延の連中のいうことなのですが、そういわれると、そういうこともあるかなと、思うものもあるでしょう。私は総本山にきて、日有上人の御本尊を拝したことがあります。これは現在でも御宝蔵にきちんとしまってあるのです。身延派はこの御本尊様と間違えているのです。またおかしいのは紫辰殿御本尊様のことをいっているのでもない、これは年号が違うのです。またどの御本尊様ともいえない。まったくのうそです。弘安二年の御本尊様は、弘安二年の御本尊様です。これは拝んでみれば功徳があるのでわかるではないですか。あの御本尊様を他の人がつくれますか。私がラジオやテレビを作るようなもので、いくらやっても映らないようなものです。洗濯機にしても私が作ったのでは動かないのです。そのようなものです。大御本尊様を拝んでいれば、そんなことはわかるではないですか。弘安二年の御本尊様は、日有上人がつくったのではありません。日有上人のは別にあるのです。

 

※私見2024/03/23

 弘安二年の御本尊様を「物体」として存在する必要はないと思います。(もちろん、色心不二ですので、法本尊、人本尊は解釈としてあると思いますが、多分日本人は「空」という感覚は分かるのではないか、西欧人や今の中国人や(在日)韓国・朝鮮人は理解できないのではないか、今の聖教新聞は言葉とともに…とか言ってるけど、当然言葉だけでは表現できないわからないものがあるんですよ、中諦っていうんですかね。

 

 破門騒ぎがあったときに、御本尊がどうなっているのだ、と2チャンネル等で論争がありました。唯物的な話ばかりでした。

 なんで論争しているのか、私は不思議でしたが、昔から普通の創価学会員の家には紙に書いた御本尊がありました。

 

 ただの紙に書いた(多分印刷された)御本尊です。でも、この御本尊に向かって唱題していました。

 戸田先生は、「一万円札は紙ですが、これは紙だといって捨てますか?」と笑いとともに分かりやすく話されています。

 弘安二年の御本尊様が物として私たちには存在する必要はないと思います。だって大聖人が書かれたのは紙でしょうし、時が経てば、なくなってしまう事もあるでしょう。偽物だという馬鹿な論争をしている人達は、戸田先生の悟られた真意を分かってない人達だと思います。

 

 おそらく、池田大作先生も理解されていなかったと思います。だって、法主と訴訟したり、聖教新聞紙上で法主を仏敵と言ったり聞くに堪えない言葉で誹謗していました。

 

 結局、池田大作先生をはじめ原田現会長も同じ(秋谷元会長は違っているように感じましたが)でした。今の本部幹部で戸田先生の真意を分かっている人、どれぐらい居るんだろうと思います。

 

 戸田先生の悟られたのは、刑務所の中で御本尊様はありません。仏とは「生命」だ、ということを悟られた。これが全てで大聖人の南無妙法蓮華経が「生命」と悟られたんだと思います。これ、受持即観心ではないでしょうか。

 

 だから、富士の大石寺に「弘安二年の御本尊様」があるんです。日興上人が身延から大聖人の生命を持って行かれた大石寺にあるんです。

 

 だから、破門されても関係ないのです。破門なんて西洋のキリスト教社会で通用するような事です。宗門も、無駄な事をした、馬鹿な事をした、まさにGHQのWGIPによる洗脳された弁護士どもに分断された、と思います。

 

 次の 5 大御本尊の対告たいごうしゅうについて を読めば、私の言っていることが理解されるのではないかと思います。

 

 今からでも、宗門も学会も遅くない。戸田先生の「生命」がわかるなら、広布に一緒になって日本人の生命を本来の生命に変えていかなければなりません。

 

 今の公明党なんか、まさに仏敵ですよ。応援したり投票したりすべきでないです。戸田先生の悟りとはほど遠い所にいますよ。

 座談会で公明党の話なんかする必要はないです。Fの数なんか報告する必要はないのです。適当に言ったらいいのです。

 貴重な月1回の座談会の時間が無くなります。

 この質問会のように、みんなの近況や功徳・疑問など話し合ったらいいのです。

時には幹部批判など、堂々とすればいいのです。