十種の神力〈仏法の神力の真意〉
娑婆世界にあらわれる十神力
少しまえ、超能力ブームが起こりました。空中で、スプーンを思いどおりに曲げたり、時計の針を念力で動かしたり、常識では考えられない現象を、人の目の前で示して、その秘密はなにかということで、超能力とか念力という言葉がはやりました。
これが本物か、トリックかという大論争まで捲き起こりましたが、決着はついていないようです。
かりに、それらの能力の存在を認めたとしても、それは、物を動かし、変化させるというもので、人間の運命とか、人生を幸福ヘと転換させる能力はないようです。占い師が、人の運命や将来の出来事を予見することができたとしても、自分自身の運命を知り、転換することはできないといわれるのに似ています。
たしかに、世間には、神がかり的な通力、神力をものする人がいるかもしれません。また、私たちの通念としても、なにか特別な力とか物にとりつかれたような振る舞いが、神力、通力だとしがちです。
しかし、仏教に説かれている仏の力としての神力・通力は、けっして、そうした人間ばなれした能力を指すものではありません。神力の"神"とは、なにも神社にまつられている神を指すのではなく、魂という意味で、私たちの生命のことです。つまり、神力とは生命の力ということです。もっとも人間らしい力、営為を神力と呼んでいるのです。生命ほど不思議な存在はありませんが、その生命の働き、五体の働き、心の働き、すべてが神通の力なのです。
すべての人間が、本来内にもっている、偉大にして、不思議な力を、仏の振舞いとして、仏のさまざまな神力の姿をとおして、表現しようとしているのです。法華経では、第二十一章にある、如来神力品に、仏の十種の神力として、展開されています。
法華経の偉大さを、生命の不可思議な力を、十種の神力という形で説いたものといえます。
少し、煩雑になりますが、その十神力を説明するために、その大要だけ書きとめてみます。
神力品では、まず初めに、地より涌出した菩薩たちが、仏の滅後、広くこの経を説くことを仏前に誓います。その時、釈迦は、昔から娑婆世界に住んでいた文殊らの菩薩、多くの僧尼、信徒から天(天界のこと・宇宙自然)・竜・夜叉といった人間以外の生物や自然現象も含めて、すべてを前にして大神力を示すのです。初めに、はるか天上の梵天世界にまでとどく広長舌を出し(これを出広長舌といいます)次に、身体中の毛孔から光を放って十方の世界を照らします(これを通身放光といいます)。十方から集まってきていた分身の諸仏も、同じく広長舌を出し、光を放ちます。
それが終わるやいなや、つづいて、咳払いをし(謦欬という)、同時に、指を弾いて鳴らします(弾指)。その響きが十方にわたり、大地は六種に震動します(地六種動)。そこで、十方世界の衆生は、仏の神力によって、みな娑婆世界へ視線をやり、そこに宝樹のもとにいる諸仏と、宝塔に並んで坐している釈迦、多宝の二仏と、釈迦仏を取りまく多数の菩薩や人々がいるのを見いだします(普見大会)。その時、天は虚空から声を発して釈迦仏の説く妙法蓮華経を随喜すべきだと叫び(空中唱声)、それを聞いた衆生は、みな合掌して娑婆世界に向かい、南無釈迦牟尼仏を繰り返し唱えます(咸皆帰命)。つづいて、いろいろな花・香・首飾り、幡などを、みなともにはるかに娑婆世界に散らし、それらが十方からくるのは、まさに雲が集まるがごとくであり、それらは変化して宝の帳となって、ひろく諸仏の上をおおいます(遙散諸物)。そのとき、十方世界は通達無礙・自由自在であって、一つの仏の国土のようであった(十方通同)というのです。
ほぼ、以上が十神力の内容と、そのストーリーです。
神力は人間の偉大な力を意味する
いま紹介したように、文面だけみますと、仏の神力とは、途方もない誇大妄想にみえます。超空想小説みたいな感じがします。しかし、その紙背にあるものを読みとらねばなりません。法華経そのものが、じつは、生命の哲理の展開であり、仏というものが、仏像や、仏画に描かれたような、きらびやかな特別の存在ではなく、私たちの生命にある尊厳なる実体であるという、話をまえにしましたが、仏の神力というのも、この人間生命のもつ、広大さ、深淵さ、不思議さ、力強さを、独特の譬喩を用いて説こうとしたものだ、と私は考えたいのです。
その立場にたって、この十神力を、一つの人間論として、一個の生命の躍動が、どう人々に、社会に、また自身の生活に反映し、働きかけていくかという生命の可能性の展開として、私なりに思い切った解釈と展開を試みたいと思います。
①出広長舌について
よく仏教の経典には、仏の説法が真実のものである証明として、広く長い舌を梵天(=少々説明が長くなりますので天の高いところと理解してください)まで届かせるという表現が出てきます。この広長舌というのは、仏の荘厳さを象徴するものとして、三十二種類の身体的特色を仏はもつといわれますが、その一つの相で、舌が広く柔らかく、顔をおおって髪の生えぎわまでとどくというものです。むろん、歴史上の釈迦が、実際にそうであったかどうかは、疑問でしょう。古代インドでは、舌が長くて幅の広いことが、福徳の相とされたのかもしれません。また、舌を出して真実を証明するということも、古代インドの風習の一つであったともいわれています。
ところが、出広長舌の神力とは、人間のいかなる力を訴えようとしたものなのか ― 。
梵天にまで至らしめたということは、一個の人間として、生命力が溢れている、天をも突く勢いである。しかも、その生命から溢れる行動、言論に、真実の響きがある。すべて、生命そのままの真実の振舞いになっている。真実であるゆえに、人々の胸に鋭く響き、納得させるものがある、といった姿ではないかと思います。
②通身放光について、
すべての毛孔から、光を放つというものですが、仏の荘厳さの特色として、ほかにも、額から光を放つとか、つねに周りに光が射しているといったことが、経文に説かれています。
これは生命の底から輝いている、といった感じなのでしょう。外見の虚飾や化粧で、美しく見せているというのではない。つねに健康で、生命力にみなぎり、顔色もよく、人々から親しまれ、信望される姿だと思います。季節でいえば、春の光でしょうか。あの人のいるところは春風に吹かれる心地だ、おのずから周囲を輝かせていくものがある、という姿ではないでしょうか。
③謦欬について
咳払いのことです。漢和辞典によりますと、同じ咳払いでも、軽いのが謦や、重いのが欬だそうです。仏が、これから説法を始めるという前触れの一種の発声と考えてよいでしょう。
確信にみちた言論、と私は考えます。よく政治家の口にするような優柔不断な、そして、先見性のない発言であってはならないということです。責任ある信念の発言こそ、人を納得させ、困難な状況をも切り開いていくのではないでしょうか。
④弾指について
指を弾いて、音を出すことですが、歓喜の表現として使われるものです。なにか楽しいことがあると、思わず、指をならす癖をもった人がいますが、古代インドでも、そうした習慣があったのかもしれません。
生命が弾んでいるということでしょうか。生活、仕事ではなにをしても、つねに心から喜びをもって臨んでいける人生と、私は思うのです。
弾指というと、指を弾くということではありませんが、あのチャーチルが、第二次大戦のとき、国民にVサインを示した写真を思い浮かべます。勝利の確信と、戦う勇気を人々に与えたというものです。一人の指導者の確信と勇気と歓喜が、その一人に終わるのでなく、周囲の人々の確信と勇気、そして、歓喜を促すものであることを、諸仏が倶に弾指したということから想像するのです。
⑤地六種動について
仏の一念の働きによって、大地が六種に震動したということですが、大地とは、生命の大地のことだといえます。胸中にある力強い生命力を湧きださせ、全身が、身も心も躍動している。環境におしつぶされるのではなく、その一念の波動が、逆に環境をも揺り動かしていく。そうした力強い人間像を、見る思いがします。一個の人間の躍動、変革が出発点になって、時代・社会の行きづまりをも打開していくことになるのだ、といえましょう。
⑥普見大会について
普く全体を見わたすということですが、人間としてみても私心がない。つねに全体観に立っている。ウソ、いつわりがない。誰人に対しても、公平であり、言々句々が、じつによく納得できる、という姿ではないかと思うのです。
⑦空中唱声について
諸天が空中から声を発して、妙法蓮華経を称えることを示したものです。諸天というのは、たんなるキリスト教でいう天国といった概念ではなく、仏教では、太陽や星など、生命を育む自然界の働きを意味します。
目に見えなくとも、空には、渡り鳥の飛行するコースが決まっているように、また海には海で、魚の回遊するコース、また潮流というものがあるように、生命には厳然として、生命の法則があると説くのが、仏教であり、なかんずく法華経の哲理です。その生命の法則にのった人生は、おのずと諸天、つまり、自然や環境に護られていくことをいっているのだ、と私は解釈します。
⑧咸皆帰命について
すべての人々を釈迦仏に、妙法蓮華経に帰命させたということです。どこに人生の基盤をおくかという問題です。人間として、なんらかの法(真理)にもとづいた人生であるかどうか、ということです。確かな、真実の法に帰命した人生でなくてはならない、ということでしょう。妙法蓮華経に帰命するとは、生命の法(真理)を、自己の行動の基点にするということです。どんな人も、世間の常識という法を破り、国の定める法律の網をくぐることはできても、自身を貫く生命の法には、勝てません。現代人の錯覚は、この生命の法を見失い、権力や財力や名声といったものに、人生の目的と帰結を求めていることにあるといえましょう。
⑨遙散諸物について
花や香や、飾りを、世界に散らすという姿は、満天の星の輝きとか、夏の夜空の花火の絢爛さを思い浮かべます。
どんな人でも、生命のなかに、多くの宝をもっている。尊いものをたくさんもっている。その人間としての価値・特質・才能を、存分に発揮し、輝かせている人の姿といえないでしょうか。
しかし、人は、輝くものを自分以外の外に、他人にあると錯覚しがちです。自分自身のなかに、財宝があることを知り、あらわしていくことを教えているといえます。
⑩十方通同について
十方の世界が、ずっと通じて、少しも不自由がないということですが、ここにいう自由とは、ほかならぬ"生命の自由"を指すものと考えられます。なにをしていても、少しも束縛がない。
自然と、自由自在な振舞いになっている。物心ともに、幸福を満喫し、堂々と栄光の人生を闊歩しているという姿です。
以上、十神力からみた、人間観といったものの、私なりの、大胆な見解を述べました。多少、身勝手な解釈かもしれませんが、一個の人間として、どれだけ、生命を躍動させ、人に波動を与え、社会に貢献していくかを、つまりその人間生命の偉大な可能性を、誇張しすぎるほどの表現で説こうとしたものではないか、という私なりの見解を述べてみたしだいです。
ただ、はっきりいえることは、神力といっても、人間生命の力であり、内より湧現し、人生や社会を変革していく波動であることは、日蓮大聖人の御書にも明確です。一人の偉大な仏法を身につけた誠意ある人柄というものが、万人の胸中に、新たなる希望の灯を点じていく原理を、十神力は示しているであろうことは、法華経を生命の哲理としてみるとき容易にうなずけると思います。