無限に広がる人間の生命〈妙音・観音〉
人はそれぞれの立場で仏教を宣揚できる
私は音楽はあまり得意なほうではないのですが、それでも素晴らしい音楽を聞くと、自然のうちに体全体が躍動する感をうけます。先日も、ふとした機会にべートーベンの「運命」を聞いたのですが、その力強さをあらためて感じ、運命に挑戦する人間の業とでもいったようなものを、しみじみと感じたものでした。また、私は絵は好きなほうですから、素晴らしい絵を見ると、思わずたたずんで、その絵を生み出した背景、画家の生命が思いやられて、絵の世界に没入していきます。
一日の活動を振りかえってみると、音楽的な要素はありませんし、描写という行為もありません。しかし、人類が始まって以来、音楽はありましたし、絵画も存在していました。天の岩戸を開かせたのは、歌舞音楽でしたし、フランス・ラスコーの洞窟にある絵など、現代の画家の心胆を寒からしめるほどの素晴らしい筆致です。人間の作り出したものではありますが、人間生命の内奥を揺り動かさずにはおかない、不思議な力をもっているようです。
法華経の方便品という章では、鼓や角貝、琵琶などの妙なる音楽をもって供養したり、仏の法を聞いて歓喜して歌ったならば、仏になる功徳を積むことができると説いています。
人間のさまざまな行事が、人々を勇気づけ、あるいは、変革させうる力をもっていることを認め、それをもって、仏教を賛嘆することの意義を説いているわけです。
ナポレオンが、戦争には必ず軍楽隊を引き連れ、突撃のさいなども、ドラムの音に勇気づけられて兵士が戦ったという話は、よく知られていますが、これなど、音楽が人々を戦争に駆り立てた悲しい例とも考えられます。善にせよ、悪にせよ、そうした働きが人々の心を動かし、意気を上がらせる役目をもっていることは間違いありません。
仏教で、そのような供養の意義を認めているということは、言葉を換えていえば、さまざまな分野で仏教を宣揚すべきことを教えている、ということでもありましょう。
仏教を信じたからといって、一人残らず剃髪し、出家し、人里離れたところで修行するべきだという法はないはずです。法華経は、そのように現実生活との遊離を説いているのではありません。一人一人は社会人であり、社会でそれぞれ生業を持っています。その場その場で、それぞれの力を発揮しながら、仏教を信仰し、宣揚していくことこそ、本来の信仰者の立場であるはずです。
芸術で身を立てる人もいる。政治の分野で戦う人もいて当然です。また、学問研究で社会に貢献しようとする人もいる。また、次代を背負って立つ青少年を育てる立場の主婦もいます。あるいは、人々のもっともいやがる仕事を引き受ける人もいるでしょう。そのどれ一つを欠いても、社会は円満な回転を望めないし、そのそれぞれの立場で、真実の人間尊重、絶対平和の社会を建設するために尽くしていくならば、それこそ、信仰者の立場を全うした、といえるのではないかということです。
人間の可能性を暗示する妙音・観音菩薩
法華経の妙音菩薩品、観音菩薩品という章では、このようなさまざまな立場で活躍する姿が描かれています。
妙音菩薩というのは、その菩薩の通るところ、自然に天空に鼓が鳴ったという力の持ち主ですが、それは、前世に十万種の伎楽をもって仏に供養したからである、と説かれております。また、観音菩薩とは、観世音、すなわち世の音を観ずる、世間のありさまをよく知悉する力をもった菩薩ですが、この観世音に会ったならば、世の中のさまざまな苦しみをよく取り除くことができる、と説かれています。
この妙音菩薩、観音菩薩は、ともに三十四身、三十三身を現じて人々を救済する、と説かれているのが興味深いところです。すべてをあげると煩雑かもしれませんので、主なものを列挙してみますと、梵王、帝釈(ともに善神=仏法守護者)、王、長者、政治家、僧侶、女性、子ども、あるいは非人などの身になるというのです。このようなさまざまな身を現じて、仏法を宣揚し、供養すると説いているわけですが、子どもにさえもなる、というのがおもしろいと思います。「負うた子に教えられ」という言葉がありますが、子どもの、既成の概念にとらわれない自由な発想が、しばしば大人の固定観念を打ち破ることがあります。どのような立場の人でも、社会に貢献することがあるものです。
また、この妙音菩薩が三十四身、観音菩薩が三十三身に変化するということは、人はさまざまな可能性をもっていることも、示しているのではないでしょうか。
といえば、とても人間一個の力では立ち向かえそうもない巨大な力、たとえば大自然の猛威、網の目のような管理社会の機構、強大な政治権力などを前にして、個人の力など取るに足りないものと思いがちですが、私はけっしてそうは思いません。
大脳生理学によりますと、人間は生まれてから大脳にある脳細胞の突起が複雑にからみ合い、高い知能を形成していき、三歳でそれがほぼ完成する、とさえいわれています。ところが、その突起の組合わせの数が膨大であるというのです。今、宇宙に存在する原子の数よりもまだ多いということです。気の遠くなるような数字でしょうが、そこに人間の持つ可能性の一端を知ることができるようです。
また、人間の脳細胞は、いかに日常使っているようにみえても、使わずに保存してある部分があり、人間の一生のうちでは、その三分の一も使用しないということです。じつにもったいないかぎりですが、もし、それを全部使うことができれば、などと考えたりしたこともありました。
もっとも、人間、賢くなるというのは考えもので、よい方向に賢明になればいいのですが、悪賢くなったり、ズル賢くなったりすると困るわけですが ― 。
「正義によって立て、汝の力二倍せん」
人間一個の生命にひそむ可能性というものは、私たちが安直に断定できないほどのものです。
小学校時代に劣等生であり、どうにもならない、とサジを投げられていたエジソンが、人類史上に輝く数々の発明を残したことを知らない人はいないはずです。
そういった意味では、人間に安易に与えられる評価ほど恐ろしいものはないといえます。あの人はこういう人間だという評価は、いったい誰がくだすことができるのでしょうか。人間には、無限の可能性があるはずです。その可能性を、尊敬と愛情をもって見つめ、一人一人の内面から掘り起こしていくことこそ、もっとも大切な作業だと思うのです。
私の知人で、ある教育者ですが、子弟をある意味で尊敬することが、その芽を伸ばす秘訣だ、と言っておりました。至言だと思いました。その教育者は、勉強のできない、いたずらばかりをして、周囲に迷惑をかける一人の児童に手を焼いていたのです。家庭を訪問したりしたのですが、父兄が教育に不熱心で、勉強ができないのは教師のせいだとでもいわんばかりの姿勢をとる始末。放課後、残して勉強させようとしたこともあったのですが、かえって反抗的態度をとるばかりで、成果をともなわない。半分あきらめていた状態だったのですが、ある日のこと、その児童が、紙に絵を描いていた。それが対象の特徴を、独特の感覚でとらえた、思わず目を惹きつけられるものだったのです。
けっして上手とは思えませんでしたが、そのような魅力ある絵を描くその子に、一種の尊敬にも似た愛情が湧いてきたそうです。そして、心からその絵をほめ、絵を描くことで才能を伸ばそうと努めた結果、やがてその子は、県の展覧会でも賞を得るまでに上達し、それにつれて勉強にも身を入れるようになった、ということでした。その教育者は、しみじみと、「どんな子どもでも、見捨ててはいけない、ということがわかった。ひょっとすれば、私以上の力があるかもしれないのだから」と述懐していました。
人間、若い時代はもちろんのこと、幾つになっても、いつ、どこから新しい才能の芽が吹き出してくるかもしれません。私も師匠として、歴代会長の姿を見ておりますが、老壮年期になっても研鑽を怠らず、生涯、青年の息吹きあふれる姿には、心から感服し、自らも少しでも才能を発揮し、また、周囲の人々が最大限に才能を伸ばせるように、心を配ることが大切だ、とも思ったのです。
人々の生命が、無限の可能性をもっと確信することは、同時に、すべての生命を尊敬するということです。その思想が全世界に行き渡ったならば、醜い国家間の争いなど起ころうはずがない。人間の生命はそれほど大きなバイタリティーをもったものだ、という認識をもつことこそ、現代世界のもっとも急を要することではないかとも思うのです。
人間、使命感をもち、目標をもち、哲学をもって立つとき、その力はますます発揮される。その力を発揮させる哲学さえあれば ― 。
私は、法華経の中に脈々と流れるダイナミズムに、その鍵を感じ取っているのです。ドイツの文学者・詩人シルレルいわく、「正義によって立て、汝の力二倍せん」と。