生命の鏡を磨く〈浄明鏡の譬え〉
鏡は法華経、「真実」と「自身」を映す
白雪姫の物語に出てくる話ですが、王妃が魔法の鏡に「鏡よ鏡、魔法の鏡、世界中で一番美しい人はだれ?」と問いかけるところがあります。鏡は、王妃の美しさをたたえはしますが、一番美しいのは、やはり白雪姫だと答え、そこから波乱万丈の物語が始まるのですが、ここで、その話をするつもりは毛頭ありません。
じつは、王妃が問いかけるのは、なぜ「鏡」なのか、という単純素朴な疑問が、子どものころから私の脳裏にありました。魔法の時計でもいいはずだし、「杖よ杖、魔法の杖」であっては、なぜいけないのか。「一番美しいのはやっぱり白雪姫」と答えるのが、ランプであっては、なぜいけないのかということです。もちろん、顔を見るのは鏡だから、ということかもしれませんが、それだけでは、どうもスッキリいかなかったのです。
バカバカしい疑問かもしれませんが、子どもの私にとっては、重大なテーマでした。その後、年をとるにつれて、それに対する答えは想像がつくようになりましたが、法華経、法師功徳品に出てくる浄明鏡の譬えをみて、「やっぱり」と、ひとり感心したのです。
法師功徳品には、「若し法華経を持(たも)たんは、其の身甚(はなは)だ清浄なること、彼の浄瑠璃の如くにして、衆生皆見んと憙(よろこ)わん。又浄明なる鏡に、悉く諸の色像を見るが如く、菩薩浄身に於いて、皆世の所有を見ん」とあります。つまり、この法華経を信ずるならば、命が清浄になって、きよらかな瑠璃の玉のように、人々が見ようとするだろうし、きよらかで明瞭な鏡に、すべてのものがはっきりと映るように、ものごとを見ることができるのである ― ということです。
法華経は、その哲理を鏡にたとえているわけです。これは、鏡が真実ありのままを映し出す、という性質をもつところからきているようです。もちろん、鏡に映るのは虚像であり、少しひねくれて考えると、左右が逆になって映るわけですから、真実そのままというわけにはいきません。しかし、それは考え過ぎというもので、昔から水や金属を鏡にして、人々は自らの姿を映し出そうとしたのは、間違いのないことです。
王妃の問いで、鏡が白雪姫の美しさを知らせるのは、鏡はウソをつかない、美しいものは美しいと、ありのままに示すという性質からでありましょう。鏡が言葉を知っていて、白雪姫であると答えたというのも、多分、どこかで王妃が白雪姫とともに鏡に姿を映し、どう見ても自分より美しい白雪姫を、鏡が正直に映し出したのを見たのかもしれない、という気がします。
話が横道にそれましたが、鏡は、真実をありのままに映すという特質があるとともに、もう一つ、自身を映すことができるという特質のあることを、忘れてはならないと思うのです。
「自身の生命こそ、本来、仏の命である」
法華経が鏡にたとえられているのは、じつは、この点に大きな意義があります。
法華経においては、仏の生命、悟りの生命、尊敬すべき対象は、わが身のほかにあるのではなく、内にある、つまり自身の生命こそ、本来、仏の命であるという考えに立っております。したがって、仏の悟りを獲得するといっても、なにか特別なものを得るというのではなく、自分自身の生命をはっきりと見つめ、そのなかにある宝を掘り出してくればいい、ということになります。
法華経は、自分自身の生命を見つめるよすがとなるものです。つまり、「生命の鏡」と表現できるかもしれません。ふつうの鏡は、肉体、形を映し出すにすぎません。しかし、法華経の浄明鏡は、その人の精神の内奥の世界を明瞭に映し出します。しかも、その生命が今までどのような流転をし、どのような広がりをもつのかという、いわば時間的、空間的に、無限のものさしで正確に計ることができるといわれます。釈尊はさまざまな経典で、いろんな衆生の過去、現在、未来の生命を説いてきかせますが、現象の世界にあらわれる生命を洞察するだけでなく、その生命現象を生み出している、生命内奥のダイナミズムを鋭く見通していることを、象徴しているのでしょう。
前にも触れたようにソクラテスは、「汝自身を知れ」と言いましたが、さまざまな人との対話をとおして、いかに人々が自身を知らないか、いいかげんな認識をしているかを、知らしめようとしたといわれています。いつの時代にも哲学の最大の課題は、この「自身を知る」ことにあることは、いうまでもありません。
法華経は、この「汝自身を知る」ことを最大の眼目とし、仏になるとは、言い換えれば、自らの生命を磨くことにある、と結論づけているのです。この「生命を磨く」とは、生命を清浄にすることであり、その作業によって自己を錬磨し、仏の悟りの命を獲得することができると説くのです。仏教のいう「功徳」というのも、けっして、タナからボタモチのようなものをいうのでなく、一人一人の生命を内奥から磨きあげ、人生の「知恵」を獲得させることにあるのです。
「無心」は、心を空白にすることではない
私は中学時代、柔道を少しやりました。けっして強くはなく、段位もとっていませんが、他人に比べて、体力的に優っているとはいえなくても、相手の力を利用して投げ飛ばす爽快さに酔って、練習したものです。最近も、急に倒れそうなアクシデントに出あったとき、思わず柔道の「受け身」が反射的に出て、ことなきを得た、ということもありました。
柔道を練習しているときに、よく教えられたのは、「無心になれ」ということでした。よけいなことを考えず、精神を透明にしていくならば、相手の動きを反射的につかむことができ、それに対応することができるということなのでしょう。
しかし、この「無心」ということは、けっして心を空白にするということではないと思います。それは、生命のあらゆる器官を最高度に発揮して、いかなる変化にも対応できる万全の生命状態にするということではないでしょうか。まったくの空白ならば、ボーツとしているのと同じですから、勝てるわけがありません。無心になるとは、神経を張りつめつつも、けっして邪念に陥ったり、人為的に不自然な動作をとろうとしてはならない、ということだったと思っています。
これと同じように、六根清浄といっても、一般的に用いる清浄ということとは違います。生命の諸器官を磨きに磨きあげて、それを完全に働かせる状態にすることが、清浄ということではないでしょうか。
しかも、生命のあらゆる分野が、それぞれ無統制でバラバラになっていれば、いくら部分部分が発達していても、十分に機能を果たしうるとは思いません。生命は有機体であり、それらの部分を統合し、円滑に働かせる「知恵」が必要になってきます。その知恵のもとに、すベての現象をありのままに受け入れ、それに即応できる「六根」が見事に作動してこそ、生命が最大限に価値ある働きをなしているといえるでしょう。
鏡のように、世の中のすベてのものを明瞭に見るということは、けっして客観的に認識することではない。「知恵」の目で見るということであり、物事の本質を見るということです。しかも、他の存在を見るのではなく、自らの生命を見ることです。すなわち、わが生命の本質を実感で把握し、しかもそれを磨きあげることを、「鏡」の譬えは示唆しているのです。
戸田前会長 ― 「偉大なる凡夫」になれ
私たちは人格の形成、人生の達人を目指してつねに向上しゆく存在です。もし、このことを忘れたとしたならば、それは自ら人間であることを放棄したことである、といえるでしょう。その人格の陶冶、完成を、私たちはしばしば、社会の倫理的規律、偶像崇拝、他力信仰などによって果たそうとしてきました。しかし、真実の人格形成は、自らの生命を見つめ、それを掘り出して清浄に磨き上げていくことから始まるのではないかと思うのです。
法華経における本尊、つまり根本として尊敬すベき対象とは何かといえば、それは、自分自身であるということになります。日蓮大聖人は、一念三千という生命の完全体を一幅の御本尊として、後世の人々のために残しましたが、その本尊さえ、つまるところ、人々の生命を映し出した鏡であり、その本尊を「縁」として、いわば一つのチャンス、手がかりとして、わが身の中の宝を掘り出すべきことを教えているのです。
私たちの生命の可能性というのは、無限であるといっても、けっして過言ではない。その可能性の原石を磨き上げ、光沢に満ちたダイヤモンドとすることこそ、法華経の目指すものなのです。
私は、社会の荒波にもまれ、苦しみ抜いてきた人々が、法華経の力強い哲学に触れて、自らの可能性を見いだし、その人間革命をすることによって、素晴らしい人生転換をした姿を多く知っております。
だからといって、特別な人間になるわけではありません。戸田先生は、かつて、「偉大なる凡夫」ということを言われました。真の仏法は、人間らしい人間を形成することにある、と言ってよいでありましょう。平凡な歩みのなかにも堅実さと進歩性があれば、平凡は偉大な平凡と光り輝いていくのです。
『一生成仏抄』にいわく、「只今も、一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを是をみがくとは云うなり」と。