厭世主義か楽天主義か〈衆生所遊楽〉
"恋の逃避行"は、仏道修行の逃避に通じる
「生まれた時が悪いのか。それとも、俺が悪いのか……」
歌にまで、世相が反映されます。いや、庶民のいつわらない心が、そのまま、歌をつくっていくのでしょう。流行歌を追っていくと、そのまま歴史になるとさえいわれています。
時代、社会が暗いと、どうしても人間の生き方が厭世主義になりがちです。自分の欲するように、事が運ばなくなるからです。正直者がバカをみて、狡知と奸知にたけた者が、成功する。なぜ、こんな不幸を味わわなくてはならないのか。なぜ、こんなに報われないのか。なぜ、こんな時代に生まれたのか。苦しむために生きるのか。こうした自問自答をしてみても、その解決の糸口は得られないものです。そして、生きること自体が、忌まわしくなる。一切を、否定的に考えやすい。そうなると、必然的に無気力とニヒリズムに傾いていきます。
また一方で、こうした時代には、その正反対の傾向もあらわれます。いわゆる享楽主義です。
世の中どうなろうと、いっこうにかまわない。他人のことにかかわってはいられない。 自己の快楽を求めることこそ、人生だと ― 。これは、徹底した、ゆがんだ肯定主義ともいえます。
人間、否定か肯定か、厭世主義をとるか、快楽主義をとるかで、ずいぶん生き方がちがってきます。それは、物事に対処する態度としては、悲観主義と楽観主義の違いといえるかもしれません。
これは、一つの思想、哲学、宗教についても、いえます。つまり、この世を、現世を、どう捉えるかによって、ずいぶん、その他の面でも、考え方がちがってくるものです。
たとえば、キリスト教の現世観は、どちらかといえば、否定的な面が強いといえます。人間はすべて、生まれながら原罪を背負っているという考え方に、それが端的に現われています。神ヘの信仰によって、その罪があがなわれ、死して、天国か地獄か、または煉獄かの審判が下される。この世の生は一回かぎりであり、その人生の総決算である神の審判も、決定的であって、けっしてひるがえすことのできないものであるとします。
そこに浮かびあがってくる人間像とは、きわめて制約された窮屈なものになってくるでしょう。
仏教においても、小乗教は、きわめて虚無的な思想が強いのです。ただ、キリスト教と異なるところは、この世の苦悩を、神の意志といった他者との関連でみるのではなく、どこまでも、自身の生命の軌跡のうえに求める点です。その苦悩の原因である生命の濁り、つまり、煩悩を断じ滅することによって、心の平安が得られると考えるのです。
また、大乗教のなかでも、まだ権(仮)の教えという意味で、権大乗教といわれる、法華経以前の経典では、概して、現世否定、厭世主義の傾向が強いといえましょう。たとえば「厭離穢土・欣求浄土」という思想など、その好例といえます。穢土というのは、浄土に対して穢れた世ということです。この現実の人間社会のことを指しています。苦悩うずまくこの世を厭い、離れ、ほるか西方にある極楽浄土を希求せよ、と教えているのです。そこで、安心して、仏道修行に励めばよいというのです。
〃恋の逃避行〃という言葉があります。これは、仏道修行の逃避行といえるかもしれません。
難題を一つ一つ克服するのが真の「遊楽」
ところで、法華経においては、どうか。「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず」とは、日蓮大聖人の言ですが、そうした現実からの逃避を厳しく戒めています。そしてその法華経の裏づけの原理は、前にも述べたように、「娑婆即寂光土」という考え方になります。この苦悩の世界を離れて幸福はない、という思想です。さらに、それは、人生の生き方として「衆生所遊楽」と説かれています。
「衆生所遊楽」という言葉は、寿量品16の後半部の偈頌(詩文)のなかに出てきます。書き下し文にいたしますと、「衆生の遊び楽しむ所」ということです。
この言葉が、私の脳裏に鮮烈に焼きつけられたのは、あの戸田先生の法華経の講義の時でした。戸田先生は、寿量品のこの箇所を、次のように講義されたと記憶しています。
「この娑婆世界というのは、衆生所遊楽といって楽しむところである。われわれは、本来、人生を楽しむために、遊ぶために、この世に生まれたのだ」と。
ずいぶん、思い切ったことを言われるものだと、私は少なからず驚きました。宗教と名のつくものは、どんな宗教でも、この世は、苦悩だという前提から出発しているものと、思い込んでいたからです。
その後、私の教学もすすみ「衆生所遊楽」という意味が、現実感としてわかりかけてきました。というのも「御義口伝」に「難来るをもって安楽と意得可きなり」とあり、仏法でいう「遊楽」とか「安楽」というのが、たんなる安逸や、何もない白紙のような、平安な状態を指すのではないことを知ったからです。
ただ、私は、池田会長が、この「衆生所遊楽」ということを、「大白蓮華」(教学部の機関誌)の巻頭言に書かれたものを読み、電撃的な感動を覚えたことがあります。
それは、こういう一節です。
「釈迦は爾前経(法華経が説かれる前の経)において、この世界は苦の集まりであると説き、それは道によって修行を積み、苦を滅する必要があると、四諦の法輪を明かした。しかし、法華経に至って、常楽我浄と説いて、この世界は浄土であり、楽土である。そして、われわれの生命は永遠にして、十界三千の当体(そのままの生命)であると断じ、煩悩即菩提を明かして、爾前経を完全に打ち破っている。
したがって、われわれの人生は、あくまでも法華経の原理に照らし、衆生所遊楽の御金言を確信して、生活の中に具現すベきである。
ひるがえって、この現実の生活は、九界の世界であり、人生の戦いは、けっしてなまやさしいものではない。われわれの前途には、幾多の難問題が横たわり、苦闘と激戦の連続である。
しかし、それらに対して、一歩も引かず、その一つ一つを克服していく姿こそ、真の遊楽であると確信する。それがあたかも、波乗りを楽しむような、悠々たる自己の生命力を自覚するとき、無上の幸福境涯であることを、絶対に確信されたい」
この中に「それがあたかもが"波乗り”を楽しむような」との一句に、私の魂は揺さぶられたのです。まさしく、仏法の幸福観は、けっして、静寂な世界ではない。生命のダイナミズムが、その的確な譬喩にうかがわれたのです。
「衆生所遊楽」という言葉には、みじんも厭世観がない。かといって、楽天主義なのかといえば、そうでもない。それは、前にも述べたとおりです。
快楽だけを追えば、快楽のために苦しむ
「衆生所遊楽」という短い言葉に、人生の本当の遊楽とは何かという、実践原理が含まれています。「衆生」とは、ごく一般的には、生きとし生けるもの、人々といった意味に使われますが、一個の人間についていえば、生命そのものを指す言葉なのです。
喜びを感じ、苦しみをいだくのは、ほかならぬ、自分自身の"生命"である。幸福の実体は、つきつめてみれば、自分自身のなかにあるものです。自己の生命を離れて外界に、幸福の実体があるのではありません。それは、虚像にすぎません。生活環境をととのえる、テレビ・冷蔵庫・洗濯機・マイホームがある。しゃれた洋服が何着もある。車もある。財産もある。そして、美しい容貌をもっているといったことなどは、すべて、幸福ヘの一つの手段であって、そこに幸福の実体があるのではないのです。たいていのものは、補助手段にすぎません。むろん、最低限、必要不可欠の手段ということはあります。しかし、その"もの"を幸福の絶対条件だと思い込んでいるところに、現代人の錯覚がある、といえないでしょうか。
もっとも大切なものは、自分自身の生命の財宝なのです。いかに外見を飾っても、自身の生命が貧しければ、なんにもならない。
人生の喜びといっても、はかない遊びのなかに、生まれるものではありません。苦労を避けて、真の喜びが得られるものでもない。ただ、快楽だけを追っていく人生は、ついには、その快楽のために苦しまねばならないでしょう。衆生所遊楽が転じて、衆生所地獄になりかねません。
困難に直面し、どれだけ、そこに生命を燃焼させたか、その苦闘のなかに、真の喜びが生まれてくるといえます。どんな苦境に立っても、悩みが多くとも、それを一つの縁とし、試練を受けとめて、自己の生命を躍動させていく姿こそ、衆生所遊楽そのものなのです。
いまは亡き吉川英治氏の、次のような言葉が思い出されます。ある富裕な一青年に語ったというものです。「どの青年も、おしなべて情熱との戦いを繰り返しながら成長していくのに、君は不幸だ。早くから美しいものを見過ぎ、美味しいものを食べているということは、こんな不幸はない。喜びを喜びとして感じる感受性が薄れていくということは、青年として気の毒なことだ」
"もの"の豊かさのなかに、幸福の実感を失っている人々の多いなかで、労苦をこそ、わが生命の財産としていけるだけの、人間のゆとりと幅をもちたいものです。
「衆生所遊楽」こそ、人生の坂を上り下りして生きゆく人間の、坂の歩み方を説き示したものといえるでしょう。人生の坂を上りつめ、ふと見ると、路傍には、自らの生命燃焼の花が美しく咲いていたというような生涯でありたいものです。