真の幸福は胸中にある〈衣裏縫宝珠(えりほうほうじゅ)

 

私たち凡夫の気づかない「無価(むげ)の宝珠」

 法華経の五百弟子受記品8に、次のような話が記されています。

 ある人が親友の家に行って懇談したり、ご馳走になっているうちに、酒に酔って、とうとう友人の宅で酔いふしてしまいました。ところが、彼がまだ酔いからさめないうちに、友人は公用でどうしても出張しなければならなくなり、客を寝かせたままで出かけました。

 そのとき、友人は価をつけられないほどの素晴らしい宝珠(無価の宝珠)を、酔いつぶれている客の着物の裏に、落ちないように縫い込んでおきました。酔って前後不覚になっていた男は、このような贈り物を友人がくれたことを、まったく知りませんでした。

 やがて、酔いがさめた男は、起きあがって親友の家を後に、流浪の旅をしながら、他国ヘと赴いていきました。どんなに努力しても、わずかばかりの衣食を得るのがやっとというありさまでした。それでも彼は、少しでも手に入るものがあれば満足し、喜んでいました。

 その後、たまたま、先の親友が彼と出会いました。そして彼のみすぼらしい姿に驚いて言うのでした。

「なんと情けない姿をしているのだ。どうして、衣食に困ってそんな姿をしているのかね。私は昔、君の衣服の裏に無価の宝珠を縫い込んでおいたはずだ。それは君の願いが何でも叶えられるほどの高価な珠だったのだ。ほら今でもちゃんとあるじゃないか。それなのに君は、まったく知らないで苦しみ悩んで生活しているなんて、愚かなことだ。さあ、この宝をもって、意のままの生活をしなさい」と。

 これを聞いて男は、今までの自分の愚かさを恥じるとともに、無価の宝珠を得た喜びに燃えたったのでした

 

 さて、この話を聞いて、どんな感想をおもちですか。「大体、友人がメモでも書いて教えてやらなかったのが不親切だよ」「俺にもこんな友だちがいたら、ありがたいな」「よく同じ服をいつまでも着ていたものだね。服を取り替えていたら、それこそ絶望的なことになっていたろうな」などと、私自身も考えたりしたことがありました。しかし、これは譬喩というものの性格を知らないところからきたものだったことは、あとになってわかったことです。

 それはともかく、この譬えは、私たちの生命の内に"無価の宝珠"があって、それを私たち凡夫がまったく気づかないことを教えたものですその無価の宝珠とは、私たちの生命に内在する"仏界"という宝のことなのです。このように仏法では、さまざまな譬喩を通して、人間生命の内にもつ偉大な働きを自覚させていくのです。

 ふたたび強調すれば、仏法で説く"仏"は、キリスト教などで説く"神"のような宇宙を支配する造物主ではありません。また、私たちの外にあって、手を差しのベ、助けてくれる人でもないのです。仏とは、どこまでも、人間としての最高の知恵と力をそなえた人のことですそして、そのような理想的な知恵と力が、すべての人の生命に、本来そなわっていることを、この譬えは示しているのです。

 

幸、不幸も自身の内にある「宝」しだい

 考えてみれば、幸福を感じたり、不幸を感じたりということは、環境と自分との関係性のうえから生じることです。どんなにおいしい食べ物があったとしても、お腹の具合の悪い人にとっては、かえってそれが不幸の種にもなりかねません。どんなにお金がたくさんあっても、満足できずに、さらに貧っていくならば、それはけっして幸福とはいえないでしょう。問題は、あらゆる環境に対処しつつ、さらにそれに積極的に働きかけていく自分自身の側に、より多くの要因があるということです。

 しかし、この基本的な原理を、今日までの文明は、いつのまにか忘れ去っていたといえないでしょうか。環境さえととのえば、人間は幸福になる。お金さえあれば、美しい着物さえあれば等々、人生の宝を外界に求めて放浪の旅を続けて、それらの宝が、瞬時の喜びを与えてくれることに満足してきたのが、今日までの人類の姿です。そこには、外界によって振り回されている、哀れな姿しかありません。

 仏法は、外界と自分という関係性を深く思索し、自己自身の内にこそ、外界のすべてに意味を与え、活用し、働きかけていく真の宝があることを発見したのです。そして、その宝のうちの最高の宝、というよりも、あらゆる宝を備えた人間生命を、根底から支えている力=仏界という、力強く、清浄で、創造性に富んだ、しかも宇宙大の広がりをもった世界が、私たちの生命の奥深くに横たわっていることを、発見しました。

 この仏界という生命を覚知し、それを基盤とした生活をしていくところには、外界のあらゆるものが、人生を潤す素材となり、何が起こっても、生命の根底においては微動だにすることなく、悠然と乗り越えていくことができるのです。そこでこの仏界を、法華経では"無価の宝珠"に譬えたのです。そして、その存在を知らない私たち凡夫を、酒に酔って前後不覚であった男に譬え、その男が諸国を流浪して生活の糧を求め歩いた姿によって、自身の生命の外に幸福を求めて尋ね歩くことの愚かさを、示したのです。さらに、わずかな衣食を得て喜んだということは、さまざまな学問、思想などによって少しの真理を発見し、喜んでいる姿を示しています。

 

 カール・ブッセの有名な詩に、次のような言葉があります。

  山の彼方の空遠く

  「(さいはひ)」住むと人のいふ。

  ああ我人と()めゆきて、

  涙さしぐみ帰りきぬ。

  山の彼方になほ遠く

  「幸」住むと人のいふ。

 結局、これも、自身のほかに幸福の実体を求めゆくことは、果てしない旅路に終わることをうたったものといえましょう

 人生の宝は、わが胸中にこそある ― この法華経の発見にこそ、偉大な真理と、幸福創造ヘの鍵が秘められていることを、私は主張したいのです。

 幸福は山の彼方の遠くにあるものではない、自らが内に生命の讃歌をかぎりなくうたいあげていく行動のなかにある ― と私は言いたいのです。したがって、幸福観とは「人生いかに生きるか」と同義であり、人間観ヘの鋭い洞察のうえに展開されるべきものであるとも、いえるでしょう。