人間教育の規範〈開示悟入〉

「開示悟入」のとんでもない誤解

 仏教とは、その言葉が示すように、仏の教えということです。仏というと、いちおう釈迦仏のことを考えますが、仏教では、釈迦だけが仏ではありません。法華経のなかにも、釈迦以外のさまざまな仏の名が出てきます。それぞれの仏には、その出現する時代と国土が決められているのがふつうです。では、いったい、がこの世に出現する目的は何か

 その仏の出世(世に出現したこと)の目的を、もっとも端的な表現で示しているのが、方便品に説かれている、開示悟入の四仏知見といわれるものです。

 釈迦は、知恵第一の弟子である舎利弗に語ります。

舎利弗、いかなるをか諸仏世尊は、ただ一大事の因縁をもってのゆえに、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なるを得せしめんと欲するがゆえに世に出現したもう。衆生に仏知見を示さんと欲するがゆえに、世に出現したもう。衆生をして、仏知見を悟らしめんと欲するがゆえに、世に出現したもう。衆生をして、仏知見の道に入らしめんと欲するがゆえに、世に出現したもう。舎利弗、これを諸仏はただ一大事の因縁をもってのゆえに、世に出現したもうとなづく」と。

 ここに出てくる「一大事」とは、「さあ、大変だ、一大事だ」と、ふつう使われる一大事ではありません。仏の根本の、もっとも大切な教えといった意味です。仏が出現した目的は、仏の知見、知恵を、人々に開かしめ、示し、悟らしめ、入らしめることにあるというのです。これを、ふつう開示悟入の四仏知見と呼んでいるのですが、この開・示・悟・入という言葉に深い意味があります

 ここを、ただ単純に読むと、なにもたいしたことを言っていないように思えます。仏のすぐれた知恵を、人々に得させることを説いているだけではないかと ― 。

 しかし、それは、多少この一節の真意を読みちがえています。多少どころか、根本的な誤解が、そこにあるといえます。

 仏のもっているなにものかを、人々に与えるといったことではないのです。仏の知見を開示悟入する主体者は、ほかならぬ衆生(人間)だからです。仏はあくまでも、その触発者にすぎません。もう少し具体的にいえば、仏の知見といっても、それは、仏の独占物ではないということです。ここが大事です。本来、あらゆる人々が、内にもっているものです。どんな人も、胸中に尊厳なる仏の生命がある。あらゆる人々に、自身に内在している尊極な生命を気づかせ、開発させるために、仏が出現したのだと説いているのです。神に近づくとか、神の御意どおりなどと「人間」と「神」を対置してみるのではなく、「人間」の中に「仏」を見るのです。見るというより、発現させていくといえるでしょうか。

「仏」から与えられるというのと、「仏」を知覚するとの解釈の違いは、たいした差異でない、と思うかもしれません。しかし、本質的な差異があるといわざるをえません。つまり、前者の立場は、仏と衆生が対置されています。仏だけが、最高の超人的な存在であり、人々はその仏に教えられ、仏に一歩ずつ近づいていくものだといった観念が、その背景にあります。西欧的な、神と人間との対立を思い浮かべるものがあります。それに対して、後者の立場は、本質的には、両者が対等の存在である。仏とはなにも特別の存在ではない。もともと、すべての人が仏なのだという、平等観が基盤になっているのです。そのうえで、あとは自身が胸中にもっている尊厳なる仏の生命を、どう開発するかという問題になるわけです。こうした考えが真に確立されるならば、それは真実の平等観の確立にもつながっていくことでしょう。すベての人が仏を内に持つ存在だとする到達点の偉大さは、そこにもあります。

 

「仏」とは、特別の存在ではない

 このことを、もっともよく示している言葉が、開示悟入の初めの"開く"という言葉です。開くという言葉のイメージを考えてみてください。反対語は閉じる、閉ざすということになります。扉を開く、閉ざすというイメージです。開いたときにあらわれるものは、もともと内側に存在したもののはずです。閉ざせば、内にあるものでも、現実にはあらわれない。

 開くということは、そこにはなかったものを、よそからもってくるということではありません。仏の知見を開かしめるという意味も、本来、生命のなかに実在する仏の働きを、開きあらわすということです。「開く」というのは、仏法独特の考え方です。けっして、外から与えられるものではないのです。

 

「開示悟入」の"開く"が、一切の出発点

 日蓮大聖人が、成仏について「成は開く義なり」と言われていますが、同様の意味です。成仏、つまり仏に成るというのは、私たち平凡な人間が、しだいに境涯を高め、成長を経て、仏に成っていくというものではない。まして、死んだら、仏さまだというものではありません。私たちの生命自体に仏が内在し、その働きを開きあらわしていくことが、成仏という意味なのだ、と教えられているのです。

 仏とは、他にあるのではない。自身のなかにあるのだと知ることが、仏知見を開くという意味です。次に開示の"示す"とは、その内にある尊厳なる生命を、現実の生活、振舞いのうえに、自身の生命の躍動した姿として示すことといえましょう。さらに"悟る"とは、その躍動した生命活動のなかで、一つの境涯というか、確信をつかむことと考えてよいと思います。"入る"というのは、もう一歩、それが深まった段階といえましょう。完全に体得しきった姿です。生命それ自体の働きが、自然に力強く輝いた活動になっている。間違いのない人生軌道に入っているということです。したがって、開示悟入といっても、まずはじめの"開く"ことが、一切の出発点になります。

 私たちの現実的な生活の場面でも、同じことがいえます。たとえば、なにか困難にぶつかる。難題に出会う。その苦難にどう対処していくのか。どう打開していくか。

 私たちは、問題の責任を他人に転嫁したり、社会やまわりの環境のせいにしがちです。あるいは"運命"の星のもとに、あきらめたりします。しかし、その問題から離れ、自分から離れたところに、原因や解決を求めるのではなく、問題自体のなかに、その難問をかかえる自分自身に、根本的な打開の鍵があると知ることが"開く"という姿勢です。苦難に正面から挑み、乗り越えていくことが"開く"という姿勢にほかなりません。そうした、数々の試練を経て、揺るぎない確信をつかむことができるようになるのだ、といえます。確信を得て、あとは、嵐がこようと、波風がたとうと、ゆうゆうとわが人生を闊歩していける境涯が"悟入"といえましょう。

 

自分を離れて、他に目を奪われるかぎり……

 教育という問題、ことに人間教育の在り方についても、同様のことがいえると思います。 プラトンの対話編のなかに、興味深い話があります。ソクラテスとメノンの対話ですが、「学ぶ」ということ、「教える」ということの意味を、巧みな対話をとおして、語っています。

 メノンの引き連れる一人の召使いの子どもに、幾何学の初歩を"教える"のです。まったく数学に無知な子どもが、ソクラテスとの問答をとおして、次々に、新しい知識を獲得していくという話です。ソクラテスが"教える"というのではなく、その子どものなかから、自然の形で、知識と知恵を引き出すのです。

 詳しい話は、ここでは略しますが、ソクラテスの主張する結論は、人に「教える」ことではなく、思い出させることが大切だというのです。どんな人も、潜在的には、あらゆる知識と知恵を、本来もっているのだというのです。

 私たちが、書物や教師に触れて「学ぶ」ということも、そこからまったく新しい発見をするのではなく、じつは、自分が忘却していたものを想起することなのだ、と主張しています。

 このソクラテスの考え方は、厳密に検討すれば、多少、問題があるかもしれませんが、なかなか示唆に富んだ話だと思います。教育のあり方、学習の意味を、改めて考えさせられるものがあるといえないでしょうか。古代ギリシャの哲人の言葉に、学ぶところは、少なくないはずです。

 この本来あるものを引き出し、導くという考えが"開く"という意味なのです。

 池田会長が、よく言われることを思い出します ― 。人にものを理解させるときに、教授主義ではいけない。指導主義でなければならない。なにか、上から教えてあげるという行き方では、結局、相手も自分も行き詰まってしまう。

 相手と同じ土俵に立ちながら、方向を指し示し、導くという行き方でなければだめだ。本当に、相手を尊敬する気持ちがなければ、指導などできない。相手の隠れた本能や特質を、どれだけ引き出せるかが、指導者の力である ― と、教えられました。平和へ向かう民衆の自発の心をオルガナイズしていく原体験と、仏法から得た知恵ではなかったかと思います。

 人の教育だけでなく、自分自身についても、同じことがいえると思います。人間はだれでも、自分にはなんの取り柄もない、才能もないと、劣等感に陥りがちです。他人がよく見えてくる。人をうらやみ、人のまねをすることで、そうした気持ちをまぎらわしたりします。

 しかし、自分を離れて、他に目を奪われているかぎり、ほんとうの満足感は得られないでしょう。もっと、自身を見つめるべきです。きらびやかな人生や、特異な才能だけが、人間の価値ではない。どんな人にも、その人なりの特質や個性の輝きがあるはずだと、確信すべきではないでしょうか。

 仏知見を開示悟入するとは ― 仏とはなにも特別な存在でないように ― 真の人間的価値の創造を促した、思想史上にも特筆すべき言葉といえましょう。一個の人間として、どれだけ生命の価値創造をしたかを、仏法では重要視しているのです。境涯を開き、確信に満ちた、不動の人生を歩むことを教えた言葉ではないでしょうか。