人間としての姿勢〈六波羅蜜具足〉

「異常」に慣れる恐ろしさ

アルジェの戦い」という映画が、何年か前にきて、だいぶ話題になりました。私も友人と見にいく機会がありました。戦争と人間という、興味つきないテーマを追求した映画に私は感動を覚えました。戦争とは、人間社会における、もっとも緊迫した異常事態です。 一つの極限状況がそこにあります。そうした状況の前では、ふだん隠れている人間生命の深淵が露呈されて、深く人間存在というものを考えさせられました。そうした極限状況でこそ、人間の真価が問われるものなのでしょう。

 その帰り道、自然の成り行きとして、友人との話題は、その映画評でした。私は、とくに、この映画に登場した、一人のフランス軍将校の生き方が心にかかり、友人に語りました。名前は忘れましたが、その将校は、第二次大戦の時は、ナチス・ドイツのフランス侵略に抵抗して、身を挺して、地下の反ナチ運動に戦うようになります。フランス人民の自由と権利を獲得するために、勇敢に戦うのだ、と。ところが、時移り、その同じ人物が、次にフランス軍の将校として、アルジェにおもむく時は、アルジェの独立と解放を願い戦う人々を、武力と権力をもって抑圧し弾圧する側に立っているのです。

 見事に、人間の二面性をのぞかせています。時も、状況も、体制も違うのだと主張するかもしれない。また本人にしてみれば、祖国フランスのためということで、一貫した信念の行動であったのかもしれません。

 しかし、一歩掘り下げて、人間という次元で、ともに人間らしくあるとはどういうことかを考えてみると、これはやはり、矛盾といわざるをえません。

 

おとしあな。比喩的に、人をおとしいれるはかりごと。

 これとよく似た、次のような事例が思い浮かんできます。第二次大戦下に、ナチの指導のもとにユダヤ人の大量殺戮に手を貸した人々も、中国で非道きわまる行為を行なった日本軍人も(事実は非道きわまる行為は行っていない。GHQの洗脳教育による影響・https://www.youtube.com/watch?v=-6uD_h1u4VU&t=19s、あるいはベトナム戦争で、残忍な所業を行なったアメリカ兵士・韓国軍人も、家庭にあっては、よき父であり、よき夫であり、よき息子であったと。戦争という極限の状況にあっては、むしろ狂気が当たりまえになってしまうのです。

 

 これは、なにも戦争という異常な事態だけの問題ではないと思う。私たちの、平凡な日常生活の諸所に待ちかまえている陥穽(かんせい)があるものです。異常を異常と気づかないことほど恐ろしいことはありません。気づかないのは、それが慢性化してしまっているからなのでしょう。初めのうちは、少し奇妙だなとか、間違っているのではないかと思っていても、その時点で本気に考え、行動しないと、いつのまにか慣らされてしまうのです。

 ことに現代は、公害・過密化社会、そして管理化された組織社会という、すでに久しく慢性化した異常状況のなかに私たちは住んでいます。時代・社会全体が異常化しているほど恐ろしいことはないと思います。全体がむしばまれれば、それを匡正(きょうせい)することも、きわめて困難になってきます。

 その異常さの慢性化がすすむと、ついには多くの人は、それが正常だと思い込むようになってしまいます。しかも、異常さはますますエスカレートして、よりいっそう強烈な異常を求める傾向すら生まれかねません。そして、最後は、臨界点を越えて自ら破滅していく。より強い刺激を求めて、ついには自己崩壊していく麻薬患者の姿に酷似しています。

 こうした社会で、健全な人間の精神と肉体を維持していくことは、なみたいていのことではないでしょう。この社会に、真に人間らしい、健全さを取り戻すことが、今ほど要請される時代はありません。

 

人間の健全な姿を示す六波羅蜜

 次に、では、どう変革されねばならないのか。人間のもっとも人間らしい健全な姿とは、どういうものなのか。いかに人生を生きていけばよいのか。私たち現代人にとって、きわめて重大な課題となってくるのです。

 それは、さきに「アルジェの戦い」で話題にしたような、時代状況とか、体制の変化で動揺したり、また逆転してしまうような不安定な指標であってはならないことは、当然です。

 この人間の条件、つまり人生ヘの基本的な指標ともいうベき内容を、きわめて明快に把握し、私たちに提示しているものに、仏教の六波羅蜜があると、私は考えるのです。

 もともと六波羅蜜とは、菩薩が悟りを得るために修行する六種の行法のことなのです。これは大乗仏教の思想です。「波羅蜜(はらみつ)」とは、サンスクリット語のパーラミターを意味し、また(いたる)彼岸(ひがん)と訳され、「度」(わたる、わたすの意で「渡」と同じ)と同義になります。

 今も、京都に六波羅という地が残っていますが、おそらくこの六波羅蜜に由来しているのでしょう。

 六種の内容とは、檀那波(だんなは)()(みつ)(檀那(だんな)とは布施(ふせ)ということ)、尸羅波羅蜜(しらはらみつ)(尸羅(しら)とは持戒、戒のこと)、羼提波羅蜜(せんだいはらみつ)(羼提(せんだい)とは忍辱(にんにく)の意)、毘利耶波羅蜜(びりやはらみつ)(毘利耶(びりや)とは精進のこと)、禅那波羅蜜(ぜんなはらみつ)(禅那(ぜんな)とは静慮(じょうろ)の意)、般若波(はんにゃは)()(みつ)(般若(はんにゃ)とは知恵のこと)です。

 ちなみに、この六波羅蜜が大乗の菩薩の修行規範だというのは、小乗経で説かれる、これに類する行法である八正道と比べると、その大乗・小乗の違いがはっきりわかります。八正道とは、正見(正しい見解)、正思惟(正しい思索)、正語(正しいことば)、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい思念)、正定(正しい瞑想)の八つの道のことです。これらをみると、いずれも自己の精神鍛練生命の清浄化を日指したものであることがわかります大乗菩薩の六波羅蜜には、そうした自分自身のための修行も当然含まれていますが、檀那波羅蜜、羼提波羅蜜のように、他者との関係が問題になります

 つまり、こうしたところにも、小乗と大乗の精神の違いが明確にあらわれています。小乗は、いかなる人間修行といっても、所詮、利己のための修行にすぎません。自分という一個の生命の域を出ない。大乗の精神は、利他にあります。自己を犠牲にしても、他者のために身命をけずるという"慈悲"の実践が、その主眼になっております。しかも、それは本質的には、自己犠牲に終わるものではなく、かえって、自身の生命を豊かにし、拡大していくことになるというものです。

 現代のように、人間同士が不信で固められ、誰もが利己と私欲に狂奔し、他人ヘの思いやりや情愛が失われつつある時代にこそ、まさに、この六波羅蜜の指標が輝きを増してくるのではないかと思います。

 

六波羅蜜は、おのずと得られる

 読者のなかには、この仏教に説かれた規範を、そのまま人生の指標として、一般化して論ずるのは、身勝手な我田引水だと考える人もいることでしょう。たしかに、法華経以外の経典ではいやそうした見方も当たるかもしれません。たとえば、釈迦の十大弟子のうち知恵第一といわれた舎利弗が過去に六十劫という永い間、布施行を行じたが、中途で耐えきれずに退転したなどと説かれています。多分に人間ばなれした感をまぬがれえないといえます。しかし、法華経では、そうした批判は当たらないのです。法華経の開経(プロローグにあたる経典)である無量義経に「いまだ、六波羅蜜の修行を得ていないといっても、六波羅蜜は、おのずと得られる」と説かれています。

 つまり法華経哲学においては、六波羅蜜をそれ自体として、修行しなければならないものとしてはいないのです。法華経を受持したときに、自然にそなわってくる特質 ― いわば、法華経という偉大な法を信受することによって、おのずと、発現してくる人間性の発露として、考えられていることがわかります。

 

慈悲心、生命力、忍耐を持て

 たとえば、初めの「布施波羅蜜」についていえば、布施というと物の布施と考えがちですが、仏法では生命の布施がもっとも尊いとしております。生命の布施とは私たちの生命を駆使して人々の幸福のために活動していくことです。いうならば、社会の中にわが生命を布き施すことと考えてよいでしょう。具体的にいえば、人間としての、他人への思いやり、慈しみの心と、それにともなう行動であると考えられます。

 人間の生活も、社会の営みも、相互の間に相手の価値を認め、思いやる心情とその発露があって、初めて円滑な活動が成り立っていきます。家庭のなかで、これが失われたとするなら、悲劇でしょう。憩いの場であるべきところが、非情な修羅の場になりかねません。 一家離散の末路をたどることになりましょう。政治の世界の場合は、さらに悲惨です。

 国民は、権力者の道具としか見なされないでしょう。国際間においては、大国のエゴイズムの横行を招きます。

 小さき者、弱き者ヘの思いやりをもち、自らその味方となっていくことは、人間として、また社会において、もっとも大切な要素の一つといわざるをえません。仏教では、これをまた、慈悲と呼んでいます。「慈」とは、楽を与えること、「悲」とは苦を抜き取ることを意味しています。

 仏教だけでなく、いわゆる高等宗教において、概して愛が説かれているのも、人間にとって、これが不可欠の要件であることを、見抜いているからにちがいありません。

「持戒波羅蜜」とは、戒を持つということですが、なにも小乗教に説かれるような、二百五十戒、何十戒といった非人間的な"掟"を守れということではありません。小乗の戒など、全部、実行していたら、生活さえできなくなってしまいます。「戒」とは、元来、防非止悪という意味で、非を防ぎ悪を止めるということです。その非とか悪とかは、自己の生命にある欲望や衝動に身をゆだねることから生ずるものでありましょう。つまり、ここでいう持戒の真意は、自分のどす黒い欲望や、衝動に振り回され、支配されてしまってはならないということです。それを抑制し、正しくコントロールしていくことを指すのです。"克己"などというと、やや古くさい観念に聞こえるかもしれませんが、やはり、自分を正しく知り、自分に打ち克つ生命力をもつということは、いかなる時代・社会にも欠かせない人間の条件の一つではないでしょうか。

 現代の社会は、かつて、人間の欲望や衝動の足かせになっていた宗教的戒律や、社会的禁制が取り払われ、欲望や衝動が所せましと暴れまわっている観を示しています。エコノミック・アニマル、セックス・アニマルと、本能や欲望だけで行動する動物(アニマル)たちと同列の位置に人間を陥れてしまっております。むろん、その反省は見られるものの、現実にこれをどう解決するかという点では、まったく無力のようです。

 むろん、一部でもくろまれているような、いわゆる戦前にならった、道徳教育の復活では、解決するはずもありません。かえって、たんなる無理な締めつけは、人間の精神の自由まで抑圧しかねません。

 個々の人間ひとりひとりが、心の中で、自らの欲望や衝動を直視し、それを規制できる強い"自我"を確立する以外にないといえましょう。その意味からも、ひとりひとりの生命内奥からの人間革命を叫ばずにいられないのです。

忍辱波羅蜜」とは、忍耐のことです。忍耐という場合、自分の内と外と二面についていえます。

 外に対する忍耐とは、いうまでもなく、厳しい環境、生活条件に対し、耐え忍ぶことです。内の忍耐とは、自分の心に起こってくる驕った気持ち、慢心、または偏見、邪見を、自ら打ちひしいでいける力です。

 もちろん、かって、忍従という言葉が意味したような、家や世間、権威、権力のしがらみに縛られて我慢をしろといった、非人間的なそれを指すのでないことは当然のことです。いかなる事態にあっても、生命の芯をもった忍耐強い人は、けっして絶望や自暴自棄に陥らない。必ず暗を明に変えていく深さと強さをもった人なのです。忍耐を放棄することは、易しい。しかし、それは、多分に、自己を安易な道に走らせていることが少なくないことを知るべきでありましょう。

 

精進し、内省し、深き知恵を学べ

精進波羅蜜」とは、つねに前進し、向上する意欲を持つということを意味します。仏法では「進まないことを退く」とさえいっております。これは一見そうではないようですが、人生においては真理なのです。自分では、少々、ひとところにとどまっていてもよいと思っている。しかし、じつは、とどまっているのではなく、すでに、何歩も後退していることになるのだということです。日蓮正宗の江戸期の中興の祖、日寛上人が、精進を釈して「無雑の故に精、無間の故に進」といわれています清浄な心を持って、自身の成長と完成と、人々の幸福のために、間断なく進むことが、精進の人といえます。流れる川は清い。しかし、淀んだ場合は濁り、臭気さえ生じます。人間も同じで、今日も発心、明日も発心という姿勢が大切なのです。

 人間は、どこまでいっても未完であるという意味のことを言った人がいます。自らの人間としての完成を目指して、生涯、努力し、成長を遂げていくところに、他の動物にはない人間らしさの本質があるのだと思います。職業に定年はあっても、人間という本職に定年はないのです。

「禅那波羅蜜」、または「静慮波羅蜜」ともいいます。自己を顧み、自分を知り、思索していくことでありましょう。禅というと、すぐ坐禅のことと、その姿を思い浮かべるかもしれませんが、禅とは本来、自己ヘの内省、自我の確立ということなのです。その一つの手段として、いわゆる坐禅があるにすぎません。自己への内省と、そこから確立される主体性の確立こそ、禅那波羅蜜の意義と考えます。

 最後に「般若波羅蜜」です。日蓮大聖人の仏法では、六波羅蜜の中で、これを根本としております般若とは知恵のことです。人類を特色づけて呼ばれる、ホモ・サピエンス(知恵ある人)とは、この人間の特質を端的に示しているといえましょう。

 ただし、仏法でいう知恵というのは、一般世間でいう「知恵」とはいささかその意味を異にしております。それは、人間生命の内奥からダイレクトに発してくる、生命のダイナミズムといったニュアンスがあります。ともかく知恵とは、人間の実践行為の直接の鍵になるものでありましょう。変化する状況にいかに対処し、よりよき生を営もうとする働きも、人間の知恵の働きです。

 人間社会において、是非の判断を下し、価値を選択することも、知恵の働きです

 知恵は、現実の生活のあらゆる機会に要請される、人間の、人生に欠かせない一つの条件であるといえます。

 これら六波羅蜜は、人間として、もっとも必要な基本条件といえましょう。また、人生の指標ともいえるものではないでしょうか。むろん、ほかにも、その条件として掲げるべき項目はあるかもしれません。しかし、少なくとも、この六つの要素は欠かすことができないものです。すベての人が、たえず、この六つの要件を、心に刻み、いかなる行動においても忘却せず、実践するならば、必ず、それらの変革された人間群像によって、新たな社会の蘇生がなされるものと確信いたしま