第三章 人生の扉を開く鍵
人間としてあるべき七つの条件〈多宝の塔〉
第三章 人生の扉を開く鍵
人間としてあるべき七つの条件〈多宝の塔〉
「七宝の塔」は、仏界の尊さを説いたもの
法華経が壮大な生命のドラマであることは前にも触れましたが、このドラマの展開のなかには、数多くの不可思議な出来事が起こります。ここで述べる「宝塔品」の儀式についても、法華経の精神を理解しないで読んでいると、まるで空想小説になってしまいます。
宝塔品は、法華経二十八品あるうちで、第十一番目の経文ですが、法華経のなかで、きわめて重要な位置を占めております。
というのは、宝塔品の前までは、釈尊は、霊鷲山という現実の大地で説法しますが、宝塔品からは、まるで"人工衛星"よろしく、虚空(大空)で説法するのです。あるいは地上座談会から、空中座談会へといったところでしょう。
宝塔品では、冒頭から、七宝の塔が大地から湧き出て空中にのぼり、そこで宙に浮いていたというのです。この七宝というのは、七つの宝ということで、「金・銀・瑠璃、硨磲、碼瑙、真珠、玫瑰」などの宝物で塔全体が飾られているのです。
しかも、この塔は高さが五百由旬で、ヨコが二百五十由旬とあります。これは、どのくらいの大きさを表わすかといいますと、種々の説がありますが、一番小さい単位でいいますと、一由旬が、十六里とも、十二里ともいわれています。今かりに、最小の十二里説を採用しますと、当時の里程では、一里は六百メートルとされていましたから、約七・二キロメートルの距離になります。したがって五百由旬は三千六百キロメートルになります。地球の半径が六千四百キロメートルですから、地球の直径の四分の一ほどの大きさです。もっと大きい単位でいえば、地球の直径ぐらいの大きさになってしまいます。
こんなとてつもない大きい宝塔が、大地から湧現し、空中にかかったというのです。またこの宝塔には多宝如来という仏が乗っていて、釈迦もこの宝塔にのぼり二人の仏が並んですわったというのです。いったい、こんなことがありうるでしょうか。しかし、経文には、いささかのためらいもなく、厳然と、そのように説かれているのです。私も、いささか驚き、ずいぶん悩んだことがあります。ちょうど、昭和二十九年の暮れも押し詰まったころと思います。
そのころ、戸田前会長の「開目抄」の講義録が発刊されたというニュースを耳にし、そこに宝塔品の儀式についての意義が明確に規定されていると聞いて小躍りせんばかりうれしく思ったものです。「開目抄」講義録は、奥付を見ますと、昭和二十九年十一月一日になっていますが、私がそれを手にすることができたのは、昭和三十年の春ごろだったと思います。
それによると、この巨大な宝塔というのは、生命の中に実在する仏界の尊さを譬喩的に説き示したものなのです。
多少むずかしいかもしれませんが、その一節を引用してみたいと思います。
根源の力を湧現させる「南無妙法蓮華経」
「迹門(法華経二十八品のうち前の十四品)の流通分(序分、正宗分、流通分の一つで、法をいかに流布していくかを説いた部分)たる見宝塔品(宝塔品と同じ)において多宝の塔が立ち、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中に並座し、十方分身の諸仏(宇宙のあらゆる仏)迹化他方の大菩薩(法華経迹門で化導された菩薩と、他の世界の菩薩)、二乗(声聞と縁覚)・人天(人界と天界)などがこれにつらなるいわゆる虚空会(虚空での会合)の儀式が説かれている。これは、はなはだ非科学的のように思われるがいかん。しかし、仏法の奥底よりこれをみるならば、きわめて自然の儀式である。もし、これを疑うならば序品のときにすでに大不思議がある。数十万の菩薩や声聞や十界の衆生がことごとく集まって釈迦仏の説法を聞くようになっているが、こんなことができるかどうか。拡声器もなければ、また、そんな大きな声が出るわけがない。まして八年間(法華経が説かれた期間)それが続けられるわけがない。すなわち、これは釈迦己心(己心とは自己の生命の意)の衆生であり、釈迦己心の十界であるから、何十万集まったといっても不思議はない。されば宝塔品の儀式も観心(生命)のうえに展開された儀式なのである。
われわれの生命には仏界という大不思議の生命が冥伏(目に見えず伏在していること)している。
この生命の力および状態は想像もおよばなければ筆舌にも尽くせない。しかし、これをわれわれの生命のうえに具現することはできる。現実にわれわれの生命それ自体も冥伏せる仏界を具現できるのだと説き示したのが、この宝塔品の儀式である。すなわち、釈迦は宝塔品の儀式をもって己心十界互具一念三千を表わしているのである。日蓮大聖人は、同じく宝塔の儀式を借りて、寿量文底下種の法門を一幅の御本尊として建立されたのである。されば、御本尊は釈迦仏の宝塔の儀式を借りてこそおれ、大聖人己心の十界互具一念三千 ― 本仏の御生命である」(注=この中( )の内はいずれも筆者の注)
「十界互具一念三千」とか「寿量文底下種」とかの仏法用語があって、この内容を理解しにくいかもしれませんが、それはそれでけっこうです。ただ、ここでわかっていただきたいことは、この宝塔品の儀式も、生命の儀式であり、自身の中に、仏界という偉大な生命力をあらわすことができることを説いたものだということです。そして、日蓮大聖人は、この宝塔品の儀式を借りて、その仏界を湧現する根源の力、つまり南無妙法蓮華経という画竜点晴をうって、御本尊をあらわされたということです。
この戸田先生の講義に接し、私は感動しました。うれしさのあまり、友人にも読んで聞かせました。というのは、宝塔というものがわれわれの生命の中にある、この宝塔を胸中に打ち立てていくものこそ、御本尊なのだということが、しみじみとわかったからです。
「あなた自身の生命が、宝塔なのだ」
宝塔について疑問に思った人が、じつは、七百年前にもいました。それは、阿仏房という人で、日蓮大聖人が、佐渡流罪中に、弟子となって、純真な心で日蓮大聖人に仕えた人です。
阿仏房は、「いったい、あのような宝塔の儀式は、何を表わしているのでしょうか」と大聖人におたずねしたのです。それに対しての答えは、釈尊の説法を聞いた人たちが「法華経に来て己心の宝塔を見ると云う事なり」とし、さらに「今、日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、末法に入って法華経を持つ男女の、すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」というものでした。
また「然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」と言われ、別世界に宝塔があるのではない、阿仏房あなた自身の生命が宝塔なのだと、答えられているのです。
結局、阿仏房も、宝塔品のあの途方もない儀式が、何を表わすものなのかに苦悩して、大聖人に質問したのでしょう。それが、宝塔というのは、阿仏房の生命自体の中にあることを教えられ、仏法というものが身近にあることに驚きと喜びをもって、さらに求道の心を燃やしたことでありましょう。
また、宝塔が、金や銀などの七つの宝で飾られていることも、もはや宝塔が生命の中にあるものであってみれば、生命の財宝であることは明らかです。つまり、生命を飾るものであり、それは、現実の人生において輝きを表わしていくところのものでありましょう。
したがって、日蓮大聖人は、阿仏房に対して、「聞・信・戒・定・進・捨・漸の七宝を以てかざりたる宝塔なり」と答えています。
私は、この七つの宝を、人間が人間としてあるべき七つの条件ではないか、と思うのです。このことについて、しばらく考えてみることにしましょう。
日常生活に不可欠の七つの大乗戒
「聞」とは、文字どおり「聞く」ということで、人の話を聞く、また書物から何かを学び取る、そして、それらを正しく価値判断し、生活の知恵として活用することを意味します。
また「信」とは、人間への信、生命ヘの信 ― ここに大聖人の仏法の真骨頂があります。
法華経において、もっとも強調されることが「信」ということです。法華経ほど「信」の重要性を説いた経典はなく、また日蓮大聖人も、「信」というものが、仏法実践の根本の在り方であるとしています。しかし、これには深い意味があります。「信」をこれほど強調する裏付けには、欺かないということが対応しなければなりません。釈尊にせよ、日蓮大聖人にせよ、絶対に欺かない哲理としての確信に貫かれていたからこそ「信」を根本に置いたのだと思います。
こういったからといって、私は「懐疑」というものを否定するものではありません。いや、むしろ、私自身が、仏法を学びつつ、疑問と、それがわかったときの感動との連続でした。よく"大疑は大悟に通ずる"ということが言われるとおり、疑問をもつことは、人間が向上するうえで必要なことです。しかし、疑いは、信に帰着する手段であり、信を失ってよいということではありません。それでは、懐疑というより、盲疑となってしまいます。
ひるがえって現代社会は、ますます進行する人間関係の悪化、信頼感の摩滅といったような深みにはまっていますが、これも、根本的には「信」をないがしろにしてきたことから起きたともいえましょう。
次に「戒」についてですが、これは仏教でも、小乗戒と大乗戒では、その意味がまったく異なります。小乗の戒は、外からの規制によって自らの行為、行動を束縛するというものですが、大乗の戒はそうではなくて、自らの煩悩をよくコントロールする、欲望に振り回される自身ではなく、欲望を自己と他者との両方のプラスとなるような方向に向けていく、これが大乗の戒であります。欲望というものは、なくそうとしてもなくせるものではありません。欲望をいかに正しくリードし、コントロールしていくか、これが重大な課題なのです。
「定」とは、散漫ではなく、人生に根本的な安定感があるということを表わしております。根なし草が波のまにまに、はかなく漂うごときものではなく、根本的な自らの精神の支え、基盤があるということです。あるいは、前途に対して、はっきりした目的観をもつことの必要性を説いているともいえます。
「進」は成長、向上心をもち、人間としての素養を身につけていくことを意味します。
「捨」とは、目的のために自らを捨てる。捨てるといっても、けっして命を捨てるというような自殺行為、犠牲行為をいうのではありません。自己を捨てるとは、粘り強い、エゴに負けない利他の行為の重要さを意味しています。
「捨とはほどこす」ということが「御義口伝」に出ていますが、自らの生命を他にほどこし、拡大していくことが「捨」になるのです。
「慚」は自己を反省することであり、たえず自己変革を怠らないことをいうといえましょう。これは、たんなる過去への反省ではありません。未来への飛翔を込めた自覚的な意識といえましょう。
使いこなしていない「七宝」の価値
今しばらく私たちの日常生活のなかで、聞・信・戒・定・進・捨・慚を視座として振り返ってみるならば、なんと、この人間の価値を振り捨てている人の多いことでしょうか。
たとえば、誰の言葉にも耳を傾けようとしない人がいます。頑固は美徳といわれた時代も過去にありましたが、いたずらに自己の信条にだけとらわれて周囲を見ようとしないのは、本人にとってけっしてプラスとならないだけでなく、人間として本来的にもっている価値を、才能をいたずらに殺しているに等しいといえましょう。「人の振り見て我が振り直せ」というのは、現代ではあまりかえりみられない箴言となったようですが、人間というものは、まったく一人で生活しているのではないし、また、そういうことは不可能なのだから、やはり、自分にプラスになるような忠言には耳を貸すべきでありましょう。
また定まった人生観も、目的観もなく、ただ時の流れるままに生きている人もいます。それも人生ではありましょう。だが、人間としてこの世に一度生を享けた以上、この自らの生を完全に燃焼していってこそ、価値があるのではないでしょうか。これは「定」の欠如といえます。その他、自己のエゴイズムにおぼれて、あるいは煩悩に負けて、自らを抑制することができなくなっている人などは、「戒」の欠如に相当するし、こうして順次みていけば、私たちは、この七宝の価値を十分に使いこなしているといえない面が、あまりにも多いようです。
けっして高慢な説教をしているのではありません。現実社会を生の姿でとらえるとき、けっしてきれいごとばかりの羅列で解決できる問題ではないこともわかります。七宝の真意が、理念としての生命の尊貴を訴えるのではなく、実践に焦点をおいているのは、ここに意味があるのです。
以上が、ほぼ日蓮大聖人の「御義口伝」による七宝の解釈を、人間の価値という観点に即してみた場合ですが、生命の尊さを表わす七宝の塔は、こうしてみると、人間らしく生きるための指標を示しているといえましょう。
また「御義口伝」には「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは有七宝の行者なり」と教えられています。これは末法の法華経、南無妙法蓮華経を信じ実践する者は、生命の仏性・尊厳をただ観念的に叫ぶのではない、ということです。あくまでも人間としての価値を、事実のうえで開き示していくところにポイントがあることは、言うまでもありません。この意味において、七宝の塔というのは、ただきらびやかな宝の塔 ― 尊厳なる生命 ― をいうだけでなく、まさしく生命の尊厳を、実際の行動の次元において実行していく規範を示されたものといえましょう。
このように、法華経を"読む"とき、空想小説どころか、そこには人間としての行動の指標が、きらめいているのです。