女性解放の先駆け〈女人成仏〉

女性は成仏できないというが…

 中国にこんな話があります。儒教の祖、孔子がいたころですが、孔子が栄啓期という人と会い、人生の楽しみは何か、と問うたところ、まず第一に、人間と生まれたことをあげ、第二に、男と生まれたこと、第三に齢九十まで生きたことをあげた、といいます。これを三楽といっているそうですが、このうち、第一と第三、すなわち人間と生まれたこと、長生きしたことを喜ぶのは当然として、「無女楽」― 女と生まれなかったことが、人生の最大の楽しみの一つであると、栄啓期は言っているのです。

 考えてみれば、これほど女性を馬鹿にした言葉はありません。靴下とともに強くなった、というより、一時ほどには強くならない靴下などを置いてきぼりにして、今や社会の大道を濶歩せんとする「ウーマン・リブ」の闘士が耳にすれば、なんたる侮辱と、柳眉を逆立てて攻撃するであろうことは、目に見えております。

 ところで、仏教においては、ある段階まで女性はもっとも蔑視されているのを、世の女性方は知っておいででしょうか。たとえば「五障」(五つの障害)という言葉があります。女性は劣っているので、梵天、帝釈 ― これはともに善神と呼ばれているものですが ― 王、そして仏、さらには、魔王にさえもなれない、ということです。王や、善神、仏になれないというのも決定的な表現ですが、魔王にもなれないということは、考えてみれば、これほどの蔑視もありません。善や悪をなして、なんらかの存在価値をもつものとはなりえない、という意味にもとれるからです。いわば、人間扱いされていないということにもなるのでしょうか。もっとも、男性たるもの、一方で高邁な理想を掲げて、大言壮語するかと思えば、一方では、蛮勇にものをいわせて非道も行ないうる存在であることを、示唆しているのかもしれませんが ― 

 そのほか、女性は煎った種のようなもので、仏になることは絶対にないとか、この世では女性は絶対に成仏できず、将来の世で男性に生まれ変わったら可能性があるなど、徹底して女性は不成仏の存在である、と強調されます。

 これは女性だけではなく、悪人もそうであり、さらに、声聞、縁覚の二乗、今日でいえば知識階級の人々も、その種類に入れられています。これは、自分は大したものだと思って、他に教えを請おうとせず、しかも、わが身をなげうって他人に尽くそうとしない利己的なところを、痛烈に指摘しているのでしょうが、いずれにしても、女性、悪人、知識人が成仏できないと説くのは、成仏という最高人格を獲得するのに適していない、としているのでしょう。

 では、なぜ女性は成仏できないというのでしょうか。もちろん、当時のインドの社会が極端な男尊女卑社会で、女性に十分な地位、働き場所が与えられなかった情勢が反映していることは否めません。しかし、と同時に、そうした社会のしがらみに負けて、女性は自らの殻の中に閉じこもり、もっと広い場に自分を押し出そうとする努力を怠ったのも、事実ではないでしょうか。

 

八歳の娘「竜女」が即座に悟りを得た意味

 成仏、仏に成るというのは、なにか特別な修行をして、一個の別な人格になるということではありません。自らを向上させ、殻を打ち破り、自分の中にある可能性を大きく開花させていくところにあるものです日蓮大聖人は、成仏の「成」を「ひらく」と読むのだと教えられています。

 つまり、自らの生命の中に仏の境地を開いていくことである、と言っていますが、まさに至言だと思います。

 したがって、成仏ということは、日常の千変する現象に心を奪われるのではなく、己の奥にある本質、法則を見つめ、現在ではなく永遠、狭い空間ではなく全宇宙的視野に立ってものごとを洞察し、その本質論に立って自己を変革していくという、革新的な行為であるということになります。

 ちょっとむずかしい表現かもしれませんが、要するに、仏になるということは、ものすごく革新的なエネルギーを伴わなければできない、ということなのです。ですから、日常の瑣事(さじ)のみに、心を奪われ、目先の利益に動かされるのみの生命であっては、成仏は思いもよらないということになります。そういった意味で、保守的、現状維持に陥りやすい女性は、成仏できない、と説いたのではないかとも思われます。

 しかし、こうしたことは、社会体制も影響しており、女性の生命の本質論ではありません。女性をそうした地位におかしめたのは、やはり、説法の一段階にすぎないのです。あくまでも仏の真意は、そうした保守的、現状維持的風潮に流されやすい自らの生命を凝視して、真実の悟りを求めよ、と教えることにあったわけです。ですから、釈尊の悟りの経である法華経では、一転して女性の成仏が高らかにうたわれるのです

 竜女という、竜王の娘で、八歳になる女性が、法華経の提婆達多品で登場してきます。経文では、海中から出現する模様が説かれるので、浦島太郎の話を髣髴とさせますが、これは海洋に住んでいた民族を指すのかもしれません。それはそれとして、その竜女が仏の説法の座にきて、大衆の面前で即座に悟りを得て、人々を救済するため説法することが説かれているのです。そのありさまを経文は、忽然の間に男子と変じ、菩薩の行をそなえ、南方に行って法を教えた、と説いております。

 ここでもまだ、男子に変わるという表現がとられているのですが、ここで大切なのは、瞬間的に変わったということです。瞬間的に変わったということは、女性が男性に生まれ変わったということではない、と思われます。これはまさしく即身成仏である。社会慣習にそった表現(当時のインド社会を考慮した)をとったまでで、今までの考え方とは根本的に異なっている。この提婆達多品における竜女の成仏が、経文で明確に女性の成仏をうたったものとして、高く評価されているのは、そうした理由によるものです。

 法華経においては、そのほか、耶輸陀羅という尼僧も、仏になると説かれていますし、薬王品というところでも、女性が成仏すると強調しております。ただ、なんといっても、女性が即座に悟りを開いた提婆達多品を、その代表格とするのは当然のことです。

 

女性だからこそわかる多くの苦しみ

 男性と女性には、どういう違いがあるか。むずかしい議論を始めればキリがありませんし、私は、それに耐えうる知識も持ち合わせておりませんが、結局、生理学的には、女性は出産し授乳するという役目を持つことは、将来においても変わりそうにありません。そこで、その生理学的特徴が精神に及ぼすものとして、生命を慈み育むという性向が、特徴としてそなえられることが考えられますし、そこから、どちらかといえば、革新的であるより保守的、理想より現実を見つめやすい、という傾向が幾分なりともあらわれるかもしれません

 しかし、もしそうした特徴をもつことが事実だとしても、男女のそのような違いというのは、個人の違いよりもはるかに小さいということです。男性でも、保守的な人間は山ほどいますし、女性でも、革新的な思想の持ち主もけっして少なくない。文化人類学者のマーガレット・ミード女史の研究によれば、ニューギニアに住む部族のあるものは、女性が男性の役割を果たし、男性が女性的であるということです。社会に出て積極的に働くのは、女性であり、男性は、家に閉じこもり、座談の場では、つねに隅に座をとり、彼らの目を輝かすことといえば、人のうわさ話であり、もっとも得意とすることといえば、それは井戸端会議であるというのです。なんとも皮肉に満ちた現象ですが、そうしたことに驚きを感ずるほど、現代社会が、いわば「男性型社会」であるということなのでしょう。

 しかし、そのような社会的、伝統的束縛が、男性らしさ、女性らしさといった本来のものまでを、すべて抑圧してしまうものとは、思いたくありませんし、また、そうあってはならない。女性に対する束縛がたとえあったとしても、それを乗り越えるにたる生命の可能性を、すべての人はもっていると考えたいのです。それを、竜女の即身成仏は、示していると思うのです。

 たしかに、社会の体制を変えることも必要でしょう。それを否定するわけではありません。しかし、それのみをもって、女性解放のすべてと考えることも、同様に誤ったことです。

 私が数十人の女性に、もし次に生まれ変わるとすれば、男性に生まれたいか、それとも、もう一度女性に生まれたいかと聞いたことがあるのですが、そのときの答えは、女性に生まれたい人が半数、男性になりたいという人が三分の一、残りはわからない、ということでした。私は、男性になりたい人が大半ではないか、と考えていました。そこで、理由を聞いてみると、答えはさまざまでしたが、その中で多かったのは、女性だからこそ、いろいろな苦しみがわかる。その苦しみを人々と分かち合い、乗り越えていってこそ、真実の生きる喜びがあるから ― という答えだったのです。驚くとともに、一種の尊敬に似た気持ちが私の胸をよぎったのは事実です。そして、それが真実のウーマン・リブではないか、とも思ったのです。

 何千年も前、男尊女卑はなはだしい社会のなかでうたわれた、男女平等の思想が、今こそ花開いた、とも言えるのではないでしょうか。

 しかも、法華経の女性成仏の思想が「成仏」という生命次元で打ち出されていることに、大きな意義があると思うのです。体制というのでもなく、単なるうたい文句でもない。仏性 ― 最高の人格 ― を、それぞれの生命の内にもっているという次元において、平等であるということです。この女性解放の先駆的思想が、社会におけるさまざまな男女差別の体制の変革と、相乗作用を起こしつつ広がっていくとき、女性が真実の自由を獲得する、というより、人間としての本来の自由を、男性も女性も、自身の内面に確立していける社会が生まれるのではないかと、私は、大きな期待をする一人です。