生命の尊さの自覚と実践〈不軽菩薩〉

母親の子殺し増加、二つの背景

 昨今の生命軽視の風潮は、目に余るものがあります。いうまでもないことですが、母親という存在は、子どもにとって絶対的なものであり、子どもは母に全生命を無意識のうちに託しきっているものです。その子どもの無言の期待が、最近の母親の子殺しの増加によって、無残にも裏切られています。生まれたばかりの子どもの顔に、ビニール袋をかぶせて窒息死させ、始末に困った母親が、駅のロッカーに放り込むという事件が跡をたたない。 母親から母性本能、育児本能が喪失してしまったかの感が深い。

 こうした問題の原因を、社会制度の欠陥に求めることもできましょう。しかし、この種の事件の背後を知ると、どうやら経済苦という社会体制の欠陥から生じた、せっぱ詰まつた動機だけではないようです。若い母親が、遊ぶために子どもが邪魔になり、なんの理由もなく、安易に、罪の意識すらさらさらなく、殺すことも多いからです。これは人間の歴史にとって、驚くべきことであり、過去に例のないことです。

 『スポック博士の育児学』で有名なアメリカのベンジャミン・スポック氏は、このような風潮を二つの観点で分析しています。一つは、社会自体が病んでいることであり、もう一つは、社会が過渡期にあるときに起こる、個人の混乱ということです。

 私も、このスポック博士の分析に同感するところが多いのです。スポック氏のこの二つの分析のはじめの、社会が病んでいる、という指摘は、言い換えれば、旧来の価値観(精神的にはキリスト教的博愛主義であり、物質的には科学技術文明を中心とした生き方)が音をたてて崩れていく状態をいうと思われます。また、あとの個人の混乱という現象は、そうした文明の崩壊過程(スポック氏の言う過渡期)のなかで、人々が、自らが生きる指標を見いだせなくなってしまっている状態といえましょう。そして、この二つの病状の進行は、本来、もっとも尊厳なるベき生命を直撃し、それが今日の生命軽視の風潮を促進しているといえます。

 

"不軽(ふきょう)"とは「(かろ)んぜず」生命の尊さの自覚

 このような、時代のなかで、法華経の原理は何を示唆(しさ)するのでしょうか。法華経の精神は、生命という無上の価値を中軸に捉えたものであることは、これまでも繰り返し述ベてきたとおりですが、今、この生命軽視の進行に、真っ向うから立ち向かう実践原理として「不軽菩薩」の教えが力強く(よみがえ)ってくるのです。

 不軽菩薩は昔、威音王仏(いおんのうぶつ)像法(ぞうほう)時代(仏法が形骸化した時代)というときに、二十四文字の法華経を弘めた人です。これは法華経の常不軽菩薩品に出ていますが、二十四文字の法華経とは、「我深く汝等(なんだち)を敬う。()えて軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえん)(いか)ん。汝等(なんだち)皆菩薩の道を行じて、(まさ)に作仏することを得べし」というもので、これを漢字にすると、二十四文字になるところから、二十四文字の法華経といわれています。

 不軽菩薩の教えるところは、この不軽の文字から類推されるように、「軽んぜず」ということで、生命の尊さを自覚することをいいます。

 池田会長は、その著『御義口伝講義』のなかで、「常不軽(じょうふきょう)とは、生命の尊厳をいい、一切衆生の生命に、三世にわたって常住する妙法蓮華経の法性を意味するとの仰せである。常とは三世常住を意味し、不軽とは、一切衆生の生命は、妙法の珠をつつんだ尊厳なる当体(ありのままの本性)であり、けっして軽んずべきではないということを常不軽という言葉自体があらわしている」

 この池田会長の言葉でも明らかなように、不軽菩薩の精神は、生命を守り、大切に育む意義を示しております。

 

非難中傷をする相手をも救う不軽菩薩

 いま、もう少し不軽菩薩の行動について、法華経に説かれた内容を述ベてみましょう。

 不軽菩薩は、さきほど触れたように、威音王仏の像法時代に出現し、二十四文字の法華経を弘めましたが、ところが、当時の人々は、この不軽菩薩の修行に不審の心を抱いたのです。

 不軽菩薩は、では、どういう修行をしたかというと、一切衆生、すなわちすべての人の生命には仏性という無上の宝を内在している。その仏性に対して但行礼拝(たんぎょうらいはい)といって、()だ礼拝の行だけを実行していったのです。当時、不軽菩薩から礼拝された人々は、どういう態度をとったかというと、ただひたすらに合掌礼拝する不軽菩薩のことを、汚ないものでも見るように、さげすんだのでした。これらの人々を不軽軽毀(ふきょうきょうき)四衆(ししゅ)(僧侶、僧尼、男の在家、女の在家)というのですが、この四衆の中傷、非難にも、いささかもひるむところを見せず、不軽菩薩は但行礼拝の行をつづけていったのです。しかし究極的には、この軽毀の四衆をも救っていくのです。

 すなわち、法華経をすなおに信じなかったけれど、中傷、非難という反対の形であれ、法華経に縁した(縁を持った)ことが、のちのち成仏の因として、その人の生命のなかに残っていくのです。

 不軽菩薩に関連した法華経の話というのは、ほぼ以上のような内容です。

 

どんな人間の中にも仏性がある

 さて、私たちは、この不軽菩薩の実践を通して、何を学ぶことができるでしょうか。また、何を学ぶべきでしょうか。

 まず、人間関係という側面に焦点をあてて、考えてみましょう。

 十数年前に『孤独なる群衆』(原題Lonely Crowd)という名著を世に発表したハーバード大学の社会学教授デヴィド・リースマンは、その著作の中で、"他人志向型"の人間の価値を訴えています。他人志向型というと、日本語の語感では、すぐ主体性のない不安定な人格と錯覚しがちですが、リースマン教授の言うところは、まったく反対で、他人の感情を十分に汲み取ることのできる人間という意味なのです。そこには、個人主義の風土と、伝統のなかに根づいたエゴイスティックな性向を、いかに克服していくかという鋭い分析が見られます。

 この十数年前のリースマン教授の洞察は、今日の文明社会のなかで見事に復権してきます。もはや具体例を取りあげるまでもなく、今日の核家族化の進行とあいまって、ずたずたに引き裂かれた人間関係の様相は、文明社会のあだ花として、現代人の心を腐蝕しつづけております。

 どこといって身寄りのない、生活保護だけで、かろうじて生をつないでいる老人が、ある日、突然亡くなっても、一ヵ月も二ヵ月も、周囲の人が気づかずにいる世の中なのです。

 このままで人間砂漠とでも言えるような現代社会にあって、温かい血の通った人間関係を取り戻すためには、人間はもう一度、人間らしく生きること、つまり、お互いが、お互いの生命の尊貴に対して目を向けることが必要なのです。ひとくちに生命の尊厳といっても、ただ口で唱えているだけでは無意味です。スローガン化した言葉からは、生産的な何物をも生み出しえないのは、現代社会の特質ともいえる傾向なのです。

 生命の尊厳は、まず自らの生命に内在する仏性(仏界という本性)を確信するとともに、他の人の生命のなかにも、仏性が実在していることに思いをいたし、それを敬う。そしてお互いに尊敬し合い、守り合うという意識を持っていくとき、人間関係は、みずみずしく蘇ることでしょう。

 これは、たんに弱者に対する憐欄の情といった、上から下を見るようなものではなく、自分自身にも、他者のすべてにも共通の光があることを信ずることから出発した行動なのです。

 したがって、不軽菩薩の実践の例は、失われた人間関係を回復する方法を、実践に即して教えているのです。こういったからといって、なにも、二十四文字を唱えて礼拝せよ、と言っているのではありません。礼拝行というのは、過去の行であって、現代に適用しません。しかし、あらゆる人々の生命の中に、善性の光のあることを信じての行動が、今ほど必要なときはありません。不軽菩薩の実践は、反対者をも包んでいくヒューマニズム、つまり仏法ヒューマニズムともいうべき発現であったともいえるでしょう。迫害する人間にさえ仏性を認め、必ず幸福にしたい、との五体に満ちた決意が、あの杖木瓦石(じょうもくがしゃく)(杖や木で打たれ、かわらや石を投げられること)のなかの不抜の実践を生んでいるのです。私はそこに、現代に欠落した人間行動の尊さを見ることができると思います。

 しかし、問題は、生命の偉大な力を、現代においていかにして引き出すかにあります。その触発の問題になると、どうしても、現代に即応した、法華経の実践が必要になってくるのです。それを、私たちは、その実践原理が日蓮大聖人の仏法にある、と確信しております。