死後の生命〈寿量品の意義〉

永遠の生命は、仏法の真髄

 たしか、昭和三十八年ごろだったと記憶していますが、池田先生に個人的にお会いする機会があった時に、次のような質問をしたことがあります。

「先生、一つ質問があります。仏法では、色心不二(色"肉体的側面〃と、心"精神的側面"が二でないこと)と説いております。現在生きている人間にとって、それは納得がいきます。それでは、死後における色心の連続、とくに色法(肉体的側面の法)については、どう考えたらよいのでしょうか」

 先生は、静かな口調で「私も、この問題は会長就任以来、思索をつづけている。君自身も思索してみなさい」

 といった内容の答えでありました。私は、意外な答えに、驚きました。同時に感銘しました。

「私も会長就任以来、思索をつづけている」という答えに、生涯、仏法の極理に迫ろうとする、強い響きを感じたものです。死後の生命の連続については、戸田先生が、その大略をすでに示されていました。しかし、池田先生は、それをさらに発展させ、究明されようとしているのでした。

 それが、十年後、「大白蓮華」(教学部の機関誌)の「てい談・生命論」として展開されることは、当時としては思いもよりませんでした。やがて、仏法の生命哲学のさらなる徹底した解明と、その体系も組み立てられていく日も近いと思います。

 それはともかくとして、私自身、こうした重大問題に、わずかな紙数で触れることのむずかしさを感じております。ただ、読者諸兄姉の仏法の生命論に入っていく、一つの手掛かりとなればと思い、参考として述べてみたいと思います。

 永遠の生命は、仏法の真髄であり、究極であります。生命が永劫に生死流転を織りなす姿を説かなければ、仏法の価値は無に等しいとさえいえましょう。法華経も、当然、生命の永遠性のうえに成り立っています。

 ところが、現代人にとって、死後の生命を信じることはきわめてむずかしいようです。

 多くの人々は、ただ漠然と、死は生命の断絶をもたらすと考えています。むろん、確たる実証があるわけではありません。だが、はたして、死によって、生命は無に帰してしまうのでしょうか。

 仏法の英知は、死後の生命の実在を洞察していますが、現代人のなかにも、生と死の流転を信じている識者もけっして少なくはありません。

 

物理学と哲学にみる死の世界

 私は、仏法の哲理に少しでも近づくために、ひとまず、深く生死を考えた二人の識者の主張を取りあげたいと思います。

 一人は、物理学者、岡部金次郎博士です。博士は、『人間は死んだらどうなるか』というタイトルの著書を公けにされていますが、そのなかで、独自の推理科学を展開しています。

 推理科学とは、現代科学の成果をふまえて、科学の手のとどかない生死などの問題を推理しようとする試みです。その推理科学によると、人間生命は、生と死の状態を限りなく繰り返すと推理せざるをえないということです。

 博士は、エネルギー不生不滅の法則にもとづいて、まず、大宇宙に存在するすベてのものは、この法則にしたがう。無から突然生じたり、反対に、跡かたもなく消えてしまうものはありえないと推理します。人間生命にも、この法則はあてはまります。

 さて、人間生命には、魂の核というべきものがあり、生きている時は、活性状態を示しています。肉体と心の働きが顕現している状態です。私たちが死をむかえると、種々の生命活動は潜在化し、魂の核は非活性の状態になります。つまり、死によって、生活は活性から非活性の状態に移るだけであり、けっして消滅するものではありません。生の時をむかえれば、魂の核はふたたび活性化し、活発な身体と心の営みを蘇らせるのです。

 こうして、宇宙変転とともに、人間生命も生と死をめぐりゆくという予測が成立することになります。

 岡部氏が物理学の権威であるのに対して、私が紹介しようとする、もう一人の学者は、ギリシャ哲学の最高峰をゆく田中美知太郎博士です。

 私は、田中博士の著書『人生論風に』を夜の更けるのも忘れて読み通した経験があります。そのなかで、仏法の基盤でもある輪廻転生の教えを考察した部分に、次のような話がでていました。

 博士は、輪廻転生とは"今生のわれわれの生活の如何によって、死後のわれわれは、また、他の動物や人間に生まれ変わってこなければならないという考えである"と述べたあとで、ギリシャの数学者、ピュタゴラスにまつわる逸話を取りあげています。

 ある時、ピュタゴラスが道を歩いていると、小犬がいじめられていた。ピュタゴラスは「やめろ、なぐってはいけない。これはきっと私の友人の魂にちがいない。鳴き声を聞いていると、私にはそれがわかるのだ」と言ったといいます。

 こんな話をすると、現代人の多くは、一笑に付してしまうかもしれません。しかし、哲学者の思考は、あくまで真理を求めぬこうとします。

 たしかに、私たちは出生以前の記憶を持っていません。記憶力のすぐれた人でも、三歳ぐらいまでしか思い出せないそうですから、まして、生誕以前の記憶などあるはずはありません。輪廻説では、生誕時、忘却の水を飲まされるから、記憶を失うのだと説明するのですが、その当否は別として、記憶の有無によって、前世のことを判断するのはきわめて危険な行為でしょう。

 博士も「赤ん坊の私と現在の私の間だって、記憶の連続性があるとは言えない」と述べています。睡眠時には意識の水準が下がり、記憶はとだえてしまいます。夜、床につく前の自分と、朝のさわやかな陽光をうけて目覚めた自分が、同一の人間であるかどうかさえ、疑えばきりがないでしょう。

 でも、たとえ、記憶がとだえたり、うすれていても、睡眠の前後の自己、赤ん坊の時と現在の自分は、同一の「私自身」であると信じるのが、正常な人間の思考ではないでしょうか。それは、人間生命の絶えざる変化にもかかわらず、そこに持続し、変化しないもの ― 自己同一性 ― を、自己そのものに確信しているからでしょう。

 この自己同一性を保証するなにものかを信ずるとすれば、一種の「たましい」の不滅を考えざるをえないと、博士は言うのです。

 博士の言う、一種の「たましい」と、仏法の示す「生命の我」が同じものかどうかということは、ここでは別にして、今世での生命変化にもとづいて、輪廻説ヘの接近を試みる哲学者の思索には、私も深い感銘を受けざるをえません。

 

大宇宙は、一個の偉大な生命体

 仏法でも、人間生命それ自身のなかに、一貫した本質を見抜いています。肉体的にも、精神的にも限りない変化を織りなしつつも、そこに一定の本質の連続を見いだすのです。

 その連続する本質を、「生命の我」と呼んでおきます。

 生命の我の肉体面への反映を、私たちは次のようにして確めることができます。つまり、肉体の変化も一定の傾向にしたがっているということです。

 私の幼いころの姿と今とでは、ずいぶん違っていますが、それでも、幼少期からの傾向性は貫かれているようです。突如としてまんまるい顔が細長くなることはありません。

 身長がもう少し伸びてくれればと思うのですが、どうやら、この願いは、生命の傾向性を無視した仏法者らしからぬ望みといえそうです。

 精神面でも、小さいころからの勝気は、ずっとつづいているようです。

 ともあれ、個の生命に貫かれた傾向性は、その人の生涯を流れつづけていきます。そして、仏法では、生命の我は、死を越えて、ふたたび生を現出しうると説くのです。

 世間ではよく「生まれ変わる」と表現しますが、正確には、今世と来世は、同じ生命の連続にほかならないのです。このことは、幼少の自分と、現在の自分との同一性から、類推することができましょう。

 でも、今世の生とは異なって、死は肉体の崩壊をもたらします。とすれば、崩壊した肉体が、死後までその肉体の連続であるとは考えられない、という疑問が生まれるはずです。

 もっともな疑問ですが、ここで私は、戸田先生の仏法者としての悟達にもとづいた話を思い出します。

 戸田先生は、「肉体にもせよ精神にもせよ運命にもせよ、目に見ることのできない、しかも厳然たる存在の反映である」と力説したあとで、死後の生命について話されました。

我らが死ねば、肉体の処分にかかわらず、我らの生命が大宇宙の生命ヘ溶け込むのであって、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である。

 この大宇宙の生命体へと溶け込んだわれわれの生命は、どこにもありようがない、大宇宙の生命それ自体である。これを空というのである。空とは存在するといえば、その存在を確めることができない。存在せぬとすれば、存在としてあらわれてくるという実体を指しているのである。

『有る』『無い』という二つの概念以外の概念である。たとえてみれば、『あなたは怒るという性分を持っていますか』と問われたときに『持っております』と答えたとする。それなら『その性分を表わして見せてください』といわれても、表わしようがないから『無』と同様である。『有りません』と答えたとしても、縁にふれて怒るという性分が現われてくる。かかる状態の存在を空というのである。

 我らの死後の生命も、この空の状態で存在する。されば、縁にふれて、五十年、百年または一年後にふたたびこの娑婆世界(現実世界)に前の生命の連続として出現してくるのである」と ― 

 死において、私たちの生命は、仏法でいう「空」の状態で、宇宙生命に融合しています。

 つまり、私たちの生命が、宇宙という大生命それ自体になるのです。したがって、もし、死の状態を示す「生命の我」の肉体はどこにあるのか、と問われれば、"宇宙自体が、私たちの身体である"と答えるほかはありません。この「空」の概念を導きだした東洋の英知の一つの到達点に、私は感動を禁じ得ません。それは数学の世界が「ゼロ」の概念の導入によって大きく発達したように、「空」の概念は人間の哲学的思惟を一段と高めるものと信じております。

 宇宙自体を身体となし、心となしつつ、死の生命は実在し、やがて、生ヘの顕在化の時をむかえれば、過去の生と死を通して連続してきた傾向性にしたがって、宇宙の物質を凝縮しての有機的生命へと蘇るのです。ゆえに、死をはさんだ前後の生命は、同一の生命であるといえるのです。宇宙とはまさしく生命の青き海原なのでしょう。

 

死後も苦悩の中を流転する生命

 私は、仕事が終わって、碁盤をかこむことがあります。あくまで趣味としてですから、本因坊戦などのように、一局を打ち終わるのに何日間にもわたる激戦を繰り返すなどといったことはありません。

 それでも、夜の遅い時など、明日、このつづきを打とうと話し合って、ひとまず、碁石をくずします。碁石をもとの箱におさめても、その配置は正確に、両者の頭のなかに刻みつけられています。念のために、配置図を作成しておくことはむろんですが ― 。

 次の日、対局者は、昨夜と同じように、碁石を並ベて、そこから、ふたたび戦いが繰り広げられます。

 碁の話にたとえてみれば、碁石をくずした時が死に相当し、昨夜と次の日の対局を生にあてはめてみることもできましょう。

 こうした生死流転のなかで、個の生命は一定の傾向性にしたがって変化していくのですが、生命の変化を通してにじみでる傾向性について、もう少し詳細に述べてみます。

 たとえば、田中博士が引用したピュタゴラスの逸話のように、人間生命が犬になったり、また逆に、各種の動物が人間生命へと変転するのは、はたして可能なのでしょうか。また、この世における生命状態は、いかなる出来事を以後の生と死にもたらすのか、といった疑問に答えておきたいと思います。

 法華経譬喩品には、この世で、地獄の苦悩を味わいつづけて死をむかえた人の未来を、次のように記しています。

「其の人命終して阿鼻獄に入らん、一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん、地獄より出でては当に畜生に堕つべし」とあります。

 阿鼻獄とは、阿鼻叫喚の地獄を意味しています。苦悩の極限が、一劫 ― 八百万年、または千六百万年 ― もの長いあいだ続くというのです。それを過ぎてまた生を受け、もし、地獄より出ることがあれば、今度は畜生という本能に支配されつづける生命形態をとる場合もありうるのです。この場合、私たちが地球上で知っている本能支配の生命形態といえば、やはり、各種の動物にあたるでしょう。

 日蓮大聖人は、さらに明確な記述をされています。「聖愚問答抄」には「悲しいかな痛しいかな、我等無始より已来、無明の酒に酔て六道・四生に輪回して、或時は焦熱・大焦熱の炎にむせび、或時は紅蓮・大紅蓮の氷にとぢられ、或時は餓鬼・飢渇の悲みに値いて五百生の間飲食の名をも聞かず、或時は畜生、残害の苦みをうけて、小さきは大きなるに・のまれ、短きは長きに・まかる。是を残害の苦と云う。或時は修羅・闘諍の苦をうけ、或時は人間に生れて八苦をうく。(中略)或時は天上に生れて五衰をうく」とあります。

 ずいぶん、仏法用語が出てきますので、くわしい説明はさしひかえますが、永劫の過去から流転してきた個の生命は、その時の傾向性にしたがって、地獄の苦悩を味わいつづけたり、餓鬼の境涯をめぐったり、畜生としての本能のままに「残害の苦」(弱肉強食にともなう苦しみ)をうけたり、また、阿修羅のようにたけり狂った闘争の連続を経験することもあります。さらには、人間としての生老病死などにともなう苦しみにおそわれたり、すべての願望が満足して天上界にも昇るような喜びにひたるのもつかの間で、次の瞬間には、ふたたび三悪道の苦悩に転落していく ― こうした流転を繰り返さざるをえないのです。

 

地獄を漂流する生命を救う法華経

 地獄の苦や餓鬼の飢餓感などは、個の生命が顕在化する生の期間のみならず、死の状態の生命にも容赦なく襲いかかります。

 したがって、私たちが目撃できる生の世界にうずまく種々の苦悩や喜びや悲哀は、そのまま死せる者の領域にもあてはまりましょう。

 ちょうど、この空間には、種々多彩な電波が流れています。天上の喜びを謳いあげる恋を託した電波もあれば、極限の苦悩からの切迫した叫びを伝えるS0Sの電波もあります。

 かつて、国と国とのすべての人々を修羅闘諍の巷にひきずりこむ宣戦布告の電波がとびかった、いまわしい出来事もありました。逆に、平和の到来を告げる波長が地球を取り巻いたこともありました。

 この例を参考にすれば、少しは理解できやすいと思うのですが、私たちの死後の生命も、それぞれの傾向性、境涯に即した状態を示しながら、宇宙自体のなかに溶けこんでいるのです。

 仏法でいう「空」の状態でありながら、ある生命は苦しみのどん底にあえいでいます。

 また、他の生命は、飢餓感におののいているでしょう。強者に出会った時に体験するような心の底からの怯えが、ぬぐい去れないものもいます。静かな境涯にひたる生命も少なくはありません。

 宇宙には、さまざまな生命感を体験している無数の生命が、ことごとく宇宙生命自体と融合していると考えられます。そして、ある生命が、種々の条件のもとに、生の顕在化に入る時がくれば、その生命感、境涯にぴったりと合った、具体的な生命形態をとることになるのです。

 それは、ちょうど、特定の波長を合わせば、受信機に、適合する電波が現われるようなものです。放送局から送られてくる電波に、テレビのチャンネルを合わせて、画像を出現さすことにも譬えられましょう。

 以上のような考察からすれば、今世における本能のままに過ごした生命形成のプロセスが、その傾向性にもとづいた死をはさんで、各種の動物の形態を示す来世ヘとひきつがれる場合も、けっして否定はできないようです。

 だからといって、動物的な人間の生活が、必ず、来世も動物の姿をとるであろうと主張しているのではありません。あくまで、その個体の傾向性にもっともふさわしい姿を再現するのであって、私たちが予想もしない天体上の生命形態を示すほうが、むしろ多いのではないかと考えます。

 仏法では、この大宇宙は、ありとあらゆる生命にみちていると洞察しています。宇宙は、万物の生をささえ、育みながら、永劫の変転をつづけています。この宇宙生命にいだかれて、私たちの生命もまた、生死のはてしなき旅路をつづけているのです。こうして、永遠に流転する生命 ― そのありのままの姿を凝視するところから、仏法の実践、修行がはじまるのです。

 私は、この項目の最初に、法華経も、寿量品で説かれる生命の永遠性のうえに成り立っていると言いました。それは、法華経という経文が、永劫流転の生命の実相を洞察しぬき、そこから、地獄や三悪道に向かう傾向性を示す生命でさえも、真実の幸福を享受しうる生命の流転へと百八十度の転回を遂げさせる方途の確立を志した、偉大な英知の集積にほかならない、との意味を含ませたかったからです。

 生命永遠の姿を会得して、この法華経から、崩れない幸福へと向かう生命確立のために、ダイヤモンドにも比すベき知恵の光の数々を学んでほしいものです。