生命はこの世限りか〈寿量品に説く永遠の生命〉

不死を求めた古代の勇者ギルガメシュ

 メソポタミアで発見された紀元前二千年ごろのものに、楔形(せっけい)文字で、次のような物語が記されていたということです。

 あるところにギルガメシュという勇傑の(ほま)れ高い男がいました。獅子と戦い、天の()(うし)と戦い、怪獣とも戦って、すべてに打ち勝った勇者です。彼は、世の中に何も恐れるものがありませんでした。

 ところが、彼の親友エンキドウが、病いのため突然倒れ、世を去りました。悲嘆にくれたギルガメシュは、この時初めて、自分の力ではどうすることもできない問題があることを知り、どうしようもない恐れと、不安が彼の心を占めてしまいました。

 以来、ギルガメシュは、不死を求めて、しゃにむに旅をつづけました。途中、酒の女神シドゥリが経営する酒場に立ち寄った時、彼女はギルガメシュに次のように語りかけました。

 “ギルガメシュよ、お前はどこまでさまよいゆくのだ。お前の探す不死は見つけられないよ。神々は人間をつくった時、人間は死ぬべき者と定めたのだ。不死は神々の手にある。ギルガメシュよ、腹を一杯にし、昼も夜も楽しめ。日々毎日陽気に暮らせ。夜も昼も踊り遊ベ。衣服をきれいにし、頭を洗い、水を浴び、お前の手を支えてくれる子どもを期待せよ。お前の胸の中で妻を楽しませよ。それこそが人間のつとめというものだ

 ― 生死の問題は"神"に(まか)せ、現実生活にだけ目を向け、楽しんでいればよいと誘いかけたのです。しかし、ひとたび、生死という人生の根本命題に目覚めたギルガメシュにとって、この説得は何の力もありませんでした。

 シドゥリの酒場を出てから、大変な苦労を経た後、ギルガメシュは、大洪水を生き延び、不死を獲得したといわれている聖王ウトナピシュティムのもとへ行きます。しかし、そこでも、ついに不死の法を聞くことができず、ギルガメシュは泣き崩れてしまいました。

 大略以上のような話です。私はこれを聞いて、人間の根本的問題は、いつの時代も変わらないものであり、人間の英知は、つねに鋭く、そこへ光をあてているものだ、ということを実感しました。と同時に、現代人は、この"生死の問題"(たく)みにおおいかくし、というよりも、それを避けて、現実の華やかさに、自らもおぼれさせているのではないかと考えました。一見、華やかな現実の奥にある、生死という冷厳な法則をしっかりと見つめたギルガメシュが、現代の人々の心の中に(よみがえ)ってもいいように、私には思えるのです。

 生は、人間に一切をもたらし、死は、その人から一切を奪い去っていきます。とはいえ、死をきらって永遠の生を願うことの愚かさは、現代の人々は、誰人も知っていることです。とすれば、死の"意味"を究めることこそが、現代のギルガメシュに課せられたテーマであることになります。これに対して目をつぶってしまうのは、土台の点検をしないままに、ビルを建てていくようなものといえるでしょう。古来の最大の文学的テーマが、この生と死にあったことからも、それは窺われます。

 

死の影にとらえられた私

 生とは何か、そして死とは、生命は、はたして今世限りのものか、それとも永遠につづいていくものなのか ― この問題は、誰もが、必ず一度は当面し、対決しなければならないことといえるでしょう。そして問題のあまりの深刻さと不可解さに解決をあきらめ、ふたたびそっと、心の引き出しの奥深くに解答用紙をしまい込んでしまう人もいます。また、本当は不満足ながら、一応の解答をつくって、無理に納得をして、現実生活の中で検算をして、その解答の不確かさを確認することを恐れて、現実とは切り離された観念の世界のこととしてしまう人もいます。

 私も、かつてこの問題をさまざまに考えてみたことがありました。それは、高校時代、仲のよい同級生が山で遭難したのが、きっかけでした。昨日まで話もし、同じような生活をしていた級友の席が一つポッカリとあいているのを見るにつけ、いいようのない虚しさが心を占めたのを、今でも覚えています。

 ギルガメシュではありませんが、幼いころ死線をさまよった経験とともに、私もこの事件によって、ふたたび「死」の影を突きつけられ、同時に、自分自身の生きていることの意味を考えはじめたものです。その考えの手掛かりとなったのは、それまでの人々の、生死に関するさまざまな考え方でした。もっとも、このころ、私自身かなり仏法に関心を持ち、教学に取り組んでいたために、仏法の生命論に、確信を抱いてはいましたが、自分なりに主体性をもって、把握したかったのです。

 仏法は、それだけの広さと、大きさをもっていることも知っていたからです。その中でも、もっとも手ごろでとっつきやすかったのは、人間の生命は、生によって始まり、死によって終わるという考え方です。一見、これは、ひじょうに科学的で、現実に即した見方のように思われました。

 しかし、よく考えてみれば、これでは説明できないことが無数に出てきました。私は小さいころから病弱な体質で、友だちと遊びまわれない時など、どうして自分だけがこんなに体が弱いのだろうと考えました。また、人間には、やはり宿命とか運命とかいったものがあると考えるほうが、実感として納得できるものでした。というのも、人間は生まれ出た時から、ひとりひとり大きな差別をもっていることになりますが、この差別を、どのようにして説明したらよいのか、ということを考えてみたのです。

 生によって始まり、死によって終わるという考え方からすれば、その差別は自然に生じたものであり、人間は与えられたものとして黙ってその差別を受け入れなければならないことになります。客観的に人生を見ているかぎりにおいては、それもよいでしょう。しかし、人生とは主観的なものであり、現実の差別に泣く人にとっては、まったく解決ヘの道が開かれないことになってしまいます。

 また、生前、どんな生き方をしても、死んでしまえばみんな無に帰するとするなら、すこし乱暴な言い方をすれば、やりたい放題のことをやって、それでどうにも身動きがとれなくなったら自殺でもなんでもしてしまえばよいということになります。私にとっては、このような考え方は大事な何かが欠落しているように思えたのです。

 もっとも、これはこう考えることも可能です。すなわち、一回限りの生であるがゆえに、その一生を大事にすべきだという思考法です。これは、かなり私に説得力をもって迫ってきました。

 しかし、それでは生まれて間もなく死んでいく人もいる。あるいは途中で不慮の死にあう人もいる。私とて明日もわからぬ人生を送っている。それだけでは、どうしても納得はいかなかったのです。

 その次に私の前に現われた、生死についての考え方は、生命は死によって終わることなく、霊魂となって来世ヘ続くという考え方でした。

 これは、今世における行動の結果が来世において清算されるという意味においては、生命を今世限りのものとみる見方よりも、少し進んでいるように思われました。しかし、この考え方でもなお、生まれついての人間の差別は、神ないし不可思議な力によってもたらされたものであり、当人の関与しないところにおいてなされた"いたずら"としてしか説明できないことになってしまうのです。また、来世(天国とか、地獄とか)という、まったく知覚できない世界の存在を認めることも、私の合理的思考がゆるしませんでした。

 

「寿量品」によって「死」を新しく見直す

 私はやはり、仏法の生命論がもっとも納得がいくのでした。そして「寿量品」の次の言葉に出会った時、それを完全には理解できないまでも、いままでにない、まったく新しい視点を与えられたことを知りました。

 それは「如来(にょらい)如実(にょじつ)三界(さんかい)(そう)知見(ちけん)す。生死の()しは退(たい)、若しは(しゅつ)あること無く、(また)在世(ざいせ)及び滅度(めつど)の者無し」との言葉です。

 如来とは仏の別名ですが、如来は、三界の相、つまり、宇宙、生命の実相をありのままに見究めたというのです。その結果、生と死をどのようにみたのでしょうか。

 生死もなく、退出もなく、在世も滅度もない ― これが生命の姿であるというのです。私ははじめ、生と死、現われいで、消え去っていく姿、仏が活躍している時(在世)と、その入滅の後(滅度)ということは、厳然たる事実ではないか、それをどうして"無い"と否定しさってしまうのか、と不思議に思いました。そのことはあとで、日蓮大聖人の御義口伝によって、解答がもたらされました。

 わかったことは、これは生命が生によって始まり、死によって終わるという考え方を根底から覆し、新たなエポックを与える言葉であるということです。法華経の目からみれば、生命とは永遠に続くものであり、生まれるとか死ぬとかということは、永遠の生命のたんなる変化相にすぎないとみるのです。

 この永遠の生命が生死を繰り返していく姿を、創価学会の戸田城聖前会長は、次のような譬えを引いて述べています。

 「自分の生命というものは永遠である。この体のままで永遠に生きるのです。ただ、お爺さんになってから赤ん坊になれませんから、いっぺん死ぬのです。そして、赤ん坊になって生まれてくるのです。生まれ変わるのではない。ちょうど、われわれが赤ん坊のときからこの年まで、ずーっと続いてきているのと同じです。途中で切れたことはないでしょう。しかし、切れたみたいなときがあります。グッスリ眠っているときは、自分では生命があったのか、なかったのかわからないでしょう。しかし、夜の生命から、朝の生命に生まれ変わったとはいわないでしょう。それと同じで、来世に生命が生まれ変わるのではなくて、この生命の続きなんです。

 たとえてみれば、朝起きて元気ハツラツとして、晩になると疲れてグッスリ眠って元気を取り戻したみたいに、ずーっと年寄りになって死んで、その生命の続きが今度は赤ん坊になって生まれてきて、またお爺ちゃんになって死んで、また生まれてくるのです

 このような永遠の生命観にたってみた時、生まれながらのひとりひとりの差別というものも、結局は、その人自身の、それまでの一切の行ないの結果によるものであることが明らかになりますしたがって、それはまた、自分自身の努力の積み重ねによって打開できるものであるということにもなります。

 さらに、今世における自分自身の一切の行為は、そのまま、自身の生命に刻まれて、未来の自分を決定していくことが明らかにされています。また、永遠の生命観に立ったうえで、「不老・不死」ということを考えるならば、つねに溌剌(はつらつ)とした、瑞々(みずみず)しい躍動感のみなぎる生命こそ「不老・不死」であるといえるでしょう。

 法華経が発見したこの生命の法則は、私に生きることの真の意味を教え、厳しい現実を生きぬくための勇気と力を与えてくれました。あなた方の中には、かつて私がそうであったように、もし生命が続くとするなら、死後の生命は、いったいどのようになっているのだ、今世においてなした善悪の行為は、どのようにして来世まで連続するのか等々の、種々の疑問をもたれる方もおられることでしょう。しかし、これをどのように納得ゆくかたちで説明するかは、ひじょうにむずかしいし、私も教学に励む途上の一人の人間です。したがって、別項で多少触れるのにとどめておきたいと思います。

 ただいえることは、過去、現在、未来 ― 人間はその流れのなかで瞬間瞬間を生きつづけます。過去は現在に影響を与えつつ、未来は現在の投影を浮かベつつやってきます。やはり、今というこの瞬間瞬間を、生命の活力をもって生ききることが大切でありましょう。