大地の底から出現した菩薩たち〈地涌の菩薩〉
仏法流布を指導する四菩薩
法華経の従地涌出品15に、こんな不思議な物語があります。
それは、釈尊が自身の滅後に法華経を流布する者は誰かいないか、と呼びかけた時のことです。法華経の会座(説法の場所)に集まった人々は、それぞれに、滅後、娑婆世界で法華経を流布することを誓った。しかし釈迦は、その人々を「止みね(もうやめなさい)善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ」と制止したのです。
その時、突然、大地が震え裂けて、その中から無量千万億の菩薩が一時に出現したというのです。それらの菩薩は、皆金色の身をして光明に包まれていました。そして、ひとりひとりが、無数の眷属(その後につづくもの)を連れていたのです。これらの菩薩は、このように大地の底から出現したので、地涌の菩薩と呼ばれます。この地涌の菩薩に、四人の指導的立場の菩薩があり、その名を上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩といいました。
この物語は、まつたく唐突なものであり、合理的思考にならされた私たちには、おとぎ話としてしか受け入れられない性質のものです。しかもこの地涌の菩薩の出現が、法華経の中心をなす「寿量品」の説法への機縁となっており、後に釈尊から仏法への一切の付嘱を受けるということになっては、法華経全体の意味までもが疑わしいものになってしまいます。地涌の菩薩とは、いったい何者なのか。それが大地の底から出現したとは、何を意味するのか。私が高校二年の夏休みを利用して、徹底して『御書』を読んでみようという契機となったのも、またその後も、もっとも関心を引いたものの一つが、この問題でした。
高校時代といえば、想像力に富んだ時代です。空想の世界の中に、地涌の菩薩の出現を描いているかぎりにおいては、これはなかなか壮大な儀式といえます。釈迦の前に大勢の聴衆が集まっており、説法を聞いている。その人々に向かって、釈迦は「誰か私の法を、私の滅後に生命をかけて弘める者はいないか」と呼びかける。そこに集まった人々は、けっして臆病な人々ではありません。むしろ、社会的地位や、名誉、財産を捨てても、真実の人生の生き方、生命と宇宙の真実の法則を説いた思想を求めるという、強い求道の心に燃えた人たちでした。それでもなお、釈迦の滅後に正法を弘めていくことを誓うには、いささかのためらいがあったのです。
新しい思想というものを、人々の心の中に植え、育てあげることは、なみたいていのことではありません。それが真理であればあるほど、人々の抵抗が大きいということは不思議なことです。
真実の思想に立つということは、それだけ、自己の古い偏見と厳しく対決しなければならないことを意味するのでしょう。正法の流布にあたっては、さまざまな大難があり、不屈の忍耐が必要であることを、釈迦の姿を通して弟子たちは知っていたのです。
しかし、そのためらいを乗り越えて、勇気を奮い起こして、弟子たちは滅後の弘経(仏の教えを弘めること)を誓ったのです。にもかかわらず、釈迦はそれを制止した。いったいなぜか。それらの人々の力量や、決意では、法華経を滅後に流布することは困難だとみたからです。― とすると、法華経伝持の人は、誰もいなくなってしまうではありませんか。
ここに地涌の菩薩の出現があり、釈迦から法の流布を託されるのです。
さぞかし、地涌の菩薩は力があるのだろう。仏法を、釈迦の弟子たちよりずっと深く知っているのだろう。仏法流布の決意も、ずっとずっと深いに違いない。そんな立派な菩薩たちが、三千大千世界という、この宇宙を埋めつくしたというのだ。そして、四人の代表的指導者がいたという。いったい、どんな顔をしていたのかな、と私は考えました。ところが、この菩薩は、大地の底から出現したという。モグラモチでもあるまいに ― 。ここで、いつも私の空想は断ち切られ、地涌の菩薩とは、いったい何者なのか、そして、大地から出現したというのは、いったいどんな意味を持っているのかという、振り出しの疑問に戻るのでした。
四菩薩は釈尊の中から生まれた
そんな時、戸田前会長が講義の中で、日蓮大聖人の「御義口伝」を引いて、地涌の菩薩を説明している箇所に出会ったのです。
御義口伝には、『輔正記』という書物の文が引かれてありました。「経に四導師有りとは今四徳を表す。上行は我を表し、無辺行は常を表し、浄行は浄を表し、安立行は楽を表す。有る時には一人に此の四義を具す」と。この文に出会って私は、おそまきながら、上行・無辺行・浄行・安立行という四大菩薩に代表される地涌の菩薩も、また釈尊の己心 ― それはつまり、私たち自身の生命になりますが ― の働きを表わしたものであることを知ったのでした。釈迦という仏の生命に備わった「常・楽・我・浄」という強い働き、それを法華経では、地涌の菩薩、なかんずく四大菩薩として表現したのです。
― ところで、そこまで理解できても、なおわからないことが、一つ、私にはありました。それは、それらの菩薩が大地を震裂させて、その中から出現したということの意味です。
御義口伝には、次のように訳されてありました。
「此の四菩薩は下方に住する故に釈に『法性之淵底玄宗之極地』と云えり、下方を以て住処とす。下方とは真理なり」と。
"法性之淵底玄宗之極地"とは、大変むずかしい言葉ですが、生命の究極、根源の実在を、中国に出現した天台大師が、このように表現したものです。さらに、天台宗では、これを「真理」ともいっているわけです。この「真理」は、一般哲学的に使われている「真理」というよりも、大宇宙、生命自体を掘り下げていったところにあらわれてくる普遍の実在といった意味です。
いうなれば、地涌の菩薩は、自己の生命を奥深くに広がる普遍の実在 ― これを、日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経であると結論づけられています ― から、あらわれてくるというものです。
池田会長は「自己の生命の奥深くには、法性之淵底玄宗之極地(南無妙法蓮華経)という確たる実在がある。それに到達し、そこから、豊かな生命力をくみ出していった時に、人間としての真価が発揮されていくのであります。卑近な例でいえば、地下八百メートルのところに温泉があったとする。それを、七百メートルしか掘らなければ温泉は出ない。八百メートル掘ってはじめて温泉が噴き出してくる。と同じように法性の淵底に至って、これまで冥伏していた力が厳然とあらわれてくる。ここに到達していく生命の開拓作業が日々の信仰、唱題なのです」と述べています。
つまり、地涌の菩薩は、なにも、現実の地球の大地を割ってあらわれてきたのではなく、私たちの生命の奥深くに息づいている「南無妙法蓮華経」という大生命から湧いてくることになります。
とすれば、地涌の菩薩が大地を割って出てきた意味は何でしょうか。それは私たちの生命の中に、いつのまにかつくりあげられた、地殻ともいうベき、浅い物の考え方や、日常的習性の層を指しているとはいえないのか……。
私たちは、自分自身の生命の中に、堅い殻ができあがっていることに、なかなか気づかないものです。わが生命は、虚空のごとく広がって、妨げるものとてない、と思いがちです。しかし、一歩ひるがえって、よくよく自身の心をのぞいてみると、たしかに、一つの層をみることができます。
つまり、自分自身の物の考え方がある一つのことに固執して、なかなかそこから抜け出せずに、幸福を阻害している例は多々あるはずです。人種差別の壁、職業の貴賎、上下による人間差別の壁、科学万能主義の信奉による偏向等々、すべて人間の心の中に築かれた、地殻とはいえないでしょうか。
この生命の地殻を突き破ったところにこそ、真実の自由の"常楽我浄"の境涯があることを示したもの ― それが、地涌の菩薩たちが大地を震裂させて出現したことの意味であるといえるでしょう。私は当初、あまりに譬喩の表面にこだわっていたことに気づいたのです。これは私の学が進んだというより、やはり、境涯の問題だと思います。法華経との取り組みで自分の経験からいえることは、壮大なドラマの演出の陰のドラマの訴えるところを、深く知らなければならないということです。
さて、この地涌の菩薩だけが、法華経を釈迦から付嘱されたということは、法華経が、人間生命にまつわる一切の殻を打ち破った法であり、自己の殻を打ち破れる人のみが、法華経の真意を体得できることを示したものとみることができます。
私たちの中にも菩薩はいる
ところが、このようにみてくると、地涌の菩薩の代表である四菩薩は、自己の生命の殻を打ち破ったところにある、真に自由なる生命に備わった、本来の働きを表わしていることになります。つまりそれは、仏という生命に備わった徳を表わしていることになり、私たちの生命の奥深くに眠っている力でもあります。
ここでは、その四菩薩の徳、人間生命に備わった幸福ヘの力を、ごく簡単に紹介しておくことにいたします。
御義口伝の文によれば、上行菩薩は、常楽我浄の「我」を表わし、真の主体的な生命の発動を表わします。外のものに振り回されることのない自身の確立ということです。
無辺行菩薩は、「常」を表わし、無常の変転を繰り返す現象世界の奥にあって、その変転を起こさせていく力を表わす。永遠の生命観のうえから、人生を逞しく生きていく力といえましょう。
浄行菩薩は、「浄」を表わし、さまざまな悪縁に染まらず、むしろ環境に働きかけて、すべてを浄化していく力を表わす。自身の生命の濁りや煩悩に束縛されない力なのです。
安立行菩薩は「楽」を表わし、いかなる社会、境遇にあっても、それを自己の生命発動の縁として楽しみきっていける力です。
この四菩薩の徳が私たちの生命にきちんと備わっていて、この偉大な力が生命の大地を破って現われるというのが、地涌の菩薩出現の儀式の意味なのです。
この四菩薩を代表とする地涌の菩薩は、経文には「泥沼の中に清らかに咲く蓮華のようだ」とありますが、これは泥沼のような現実社会の中でこそ活躍し、社会変革の万波を起こしていくという意味です。目を開けば、この儀式のなかに私たちの人間としての生き方ヘの示唆が判然としているではありませんか。
壮大な儀式のドラマの主役である地涌の菩薩とは、混迷の現代に、変革と建設の指標を与えゆく人間群といえるのです。