南無妙法蓮華経とは生命
「宇宙即我」の原理を説く
以上、私は、自分が直接、法華経との触れ合いをもつことができた、戸田前会長と、そして現池田会長の、お二人の講義の一端を紹介しました。
戸田前会長は、法華経を通して「御義口伝」を、池田会長は「御義口伝」を通して法華経の哲理を展開していかれました。しかし、それは表裏一体であり、そこに共通するものは、法華経二十八品(二十八章)は、"南無妙法蓮華経"を根本にせずしては、本当のことはわからない、ということでありましょう。
ここに、本論に入るにあたり、前もって、"法華経"と"南無妙法蓮華経"の関係を、ごく簡単に触れておきたいと思います。
法華経二十八品は、あとにも述ベるように、「生命」についての解明の書です。しかし、いかに「生命」について解明を試みたとしても、それはまだ、真理観の域を脱するものではありません。
卑近な例でいえば、法華経二十八品は、たとえば「恋愛」とはこういうものだ、と説明したようなものです。それに対して"南無妙法蓮華経"とは、まさしく「恋愛」そのものであり、わが心の中に事実の感情として、恋愛が息づいているようなものです。
この「恋愛」という言葉を「生命」と置き換えてみてください。そうすると、両者の関係が、明瞭になると思います。
すなわち、法華経二十八品は、生命とはこういうものだ、という真理観であり、"南無妙法蓮華経"とは、まさしく生命の現実感なのです。
法華経二十八品は、その意味で、図上の正確な地図であり、"南無妙法蓮華経"は、現実の山河・大地の地形そのものです。二十八品は、家の設計図であり、"南無妙法蓮華経"は、家そのものです。
法華経の題号は「妙法蓮華経」です。題号とは、その経の真髄を短い書葉であらわした真髄です。妙法 ― 蓮華 ― 経と、それぞれの言葉に、深い哲学的意味がありますが、ここでは省略いたします。
その上に、日蓮大聖人は「南無」の二字を冠したのです。それは、妙法蓮華経の上に、たんに二文字を置いた、といった簡単なものではなく、じつは、仏法史上において革命的な創造的発見をはらんでいます。
「南無」というのは、梵語に漢字をあてたものですが、漢訳すると「帰命」(命を帰する)ということなのです。つまり「妙法蓮華経」へのひたぶるな「合一」こそ「南無」の意味するところです。「妙法蓮華経」と、わが生命の「合一」によって、宇宙生命の本質たる「妙法蓮華経」を、わが胸中のリズムとしていくことを意味します。
しかし、この「帰命」ということには、もっと深い意味があります。それは「帰命」ということが、「帰」するということと「命」くという、二つの意味あいをもっているということです。
つまり、「妙法蓮華経」という宇宙普遍の真理に帰するとともに、「妙法蓮華経」を、わが生命に沸き立たせていく力強さ、ダイナミズムが、そこにあるわけです。
およそ「南無」というのは梵語であり、梵語とは表音文字であり、その"音調"に"生命"があります。「妙法蓮華経」とは漢語であり、漢語は表意文字であり、その"文字"に"生命"があります。
したがって、南無とは、もはや「帰命」という"意味"だけでなく「帰命」という、力、作用、リズムそのものなのです。妙法蓮華経という宇宙大の生命の力と作用が、わが胸中を震わせつつ、沸きたたせていく根源の力の発動以外のなにものでもありません。
仏法は、けっして、認識や観念の領域にとどまっていてよいものではありません。それは、設計図を引いて、家が建ったという錯覚に等しく、地図を見て、本物の地形にわが身を置かないのと同様です。
つまり、法華経二十八品とは、南無妙法蓮華経の説明書であり、二十八品の意味するところ、"南無妙法蓮華経"という画竜点晴があって、はじめて生き生きとした光彩を帯びてくるのです。
このように述べましても、なかなかまだ理解しにくいかもしれないと思いますので、ここに一つの例をあげます。
法華経には「宇宙即我」の原理が説かれています。私たちの生命に、大宇宙をはらんでいるというのです。しかし、そう説かれても「なるほどそうか」とうなずいてみたところで、その事実の感情はありません。わが生命に宇宙大な自我が躍動していて、はじめて、それを事実観のうえに納得がいくというものです。
以上、ひじょうに根本的な命題に最初から取り組んでしまいましたが、漠然とでもけっこうですから、この命題を念頭に置いていただいて、次に、いよいよ本題に入っていきたいと思います。
