勇猛精進

 

 一年の計は元旦にあるとかいって、元旦には、あれこれの計画を立てたがる。しかし、いろいろの計画を立てても、ほとんど、それは実行されないものだ。なぜなら、人生の目的がわからないで、一年の計も一生の計も、立てられるわけがない。

 少年時代からの自分をふりかえってみれば、学校へはいれたら何かよいことがあるだろう。卒業しさえすれば何かよいことがあるだろう。どこへ就職したらとか、結婚したらとか、自分の家ができたなら……等々と、何かしら、これから先に幸福があるかしらんと思って、何年か過ぎるうちに、老人になって死んでしまう。もちろん、こうしたことは、生活していく上のそれぞれの目的には違いないが、最高の目的からみれば、それ以下のことは、全部手段になってしまうのだ。逆にいえば、終局の目的がなければ、正当な手段も立ちようがないのである。

 法華経方便品で、釈迦は『如来の説法は唯一仏乗にあり、そのほかの二乗や三乗が目的ではない」といっている。すなわら、世間の人は学問をするのが目的(声聞)だとか、いろいろの科学や哲理の奥義をつかむのが目的(縁覚)だとか、世間の人のためになる人間になるのが目的(菩薩)だと思っている。釈迦もまた、四十余年の間は、声聞を求める者には声聞の教えを授け、縁覚を求める者にも、菩薩を求める者にも、それぞれの欲するところにしたがって説法してきた。しかし、この三乗の教えは、権教であり、方便であって、決して真実の教えではない。仏の説法は一仏乗にあり、人生の目的は成仏する以外にないと教えたのである。

 末法の本仏日蓮大聖人は、三大秘法の南無妙法蓮華経をご建立遊ばされて、一切衆生に即身成仏の大直道をご教示遊ばされた。そうして、開目抄には、『身命を期とせん』とて、ご自身の命をかけて、日本国の〝柱とならん〟〝眼目とならん〟〝大船とならん〟との誓いを立てられている。父母の首をはねられるという最大の迫害を受けようとも、日本国の位をゆずらんとの最大の誘惑をうけようとも、智者にわが義が破られない限り、絶対に一歩もしりぞくことはないと断言遊ばされている。

 われわれ末法の衆生は、この末法御本仏のご誓願を、よくよくわが身に体し、まず人生の甚本方針を決定することが第一の問題だ。ちょうど、それは、小説『人間革命』のなかで、巌さんが『よし! ぼくの一生は決まった! この尊い法華経を流布して、生涯を終わるのだ!』と叫び、今こそ人生にまどわず、また、おのれの天命を知ることができたと叫んだのが、これである。

 すでに創価学会は、七十余万世帯という大発展をとげ、日本の全国民の注視の的ともなっている。それだけに三類の強敵も、ますます激しくなるであろう。いかに敵が強くても、恐れてはならない。従ってはならない。これを恐れたのでは、正法の修行を妨げられ、これに従ったのでは、悪道に堕ちるのだ。

 昭和三十三年の新春を迎えるにあたり、学会員の一人一人が、この決意も新たに、広宣流布の大道を、勇猛精進せられんことを祈ってやまないものである。『一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ』のご聖訓を日夜誦して、きょうよりも明日、今月よりも来月、ことしよりも来年と、いよいよ信心強盛に励むことが、一年の計の基本であり、一生の計の根本となるのだ。まず、腹を決めよ! 決まったら、勇ましく進め!

                            (昭和三十三年一月一日)