末法の癩人が尊い

 

 撰時抄(せんじしょう)(御書全集二六〇㌻)にいわく『()の天台の座主(ざす)よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人(らいにん)とはなるべし』と。たとえ人々の一番いやがる癩病人(らいびょうにん)となっていても、大御本尊を受持して南無妙法蓮華経と唱えぬく者は、仏教界の最高指導者といわれた天台の座主よりも、はるかに幸福であり尊貴であるとのおおせである。

 朝晩に五座三座の勤行を欠かすことなく、何十分か何時間か、毎日お題目を唱えていく人があれば、この人は間もなく自分の悪業を転じて、絶対の幸福を体得するであろう。しかし、今ここで述べようとする趣旨は、ただ一度だけ気まぐれのように唱えたお題目の功徳、相手の人は、いっこうに聞き入れず、入信もしなくても、御本尊様のお話をしてあげた人の功徳等について、若干述べてみよう。

 四信五品抄(御書全集三四二㌻)には、日蓮大聖人の弟子が、一分の解もなく何もわからないで、ただ一口、南無妙法蓮華経と唱えるその位は、爾前経をどんなに修行した人よりも、また真言宗や念仏宗等の開祖たちよりも、百千万億倍もすぐれているとおおせられている。すなわち念仏を百万べん唱えたところで、それは地獄へ堕ちる因縁を作っているだけだ。ただ一声でも南無妙法蓮華経と唱える人は、すでに成仏得道の種を下ろし、成仏得道の因を作った人なのである。信心している人が、世間的にりっぱでないとか、まだ道理や教学がわかっていないからといって、決して軽んじたりバカにしてはならないのである。観心本尊抄(御書全集二四七㌻)に法華経を引かれて、『須臾も之を聞く、即阿耨多羅三藐三菩提を究竟するを得」とおおせられて、ほんのちょっと、大御本尊様のお話を聞いただけでも、仏の智慧を究竟することができるのである。

 つぎに折伏の功徳について考えてみよう。四条金吾殿御返事(御書全集一一二一㌻)に法華経を引かれて、『若し善男子善女人、我が滅度の後に(ひそ)かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん、当に知るべし是の人は則ち如来の使・如来の所遣として如来の事を行ずるなり』と。しかして、大聖人は日蓮が賤しい身だからといって、仏説のごとく正法を広めているのだから、一言でも謗る者は無間地獄の罪を造り、一字一句も供養する者は無数の仏を供養する功徳よりもすぐれているとおおせられている。創価学会員が、宗祖大聖人の眷属として広宣流布の旗の下に結集し、闘争しているのは、末法の本仏、日蓮大聖人のお使いなのであるから、これを謗る者は無間の罪を開くのである。

 法華経の随喜功徳品には五十展転を明かし、本山へ参詣したり座談会へ出たりして、感激して家に帰り、その喜びを他人に話してあげる功徳を説かれている。最切の人が話しするときには、まだ感激は薄れていないが、それを聞いた人が、また次の人に伝え、また次の人というふうに第五十人目の人は、よほど、その喜びも薄くなってしまっている。それでも、御本尊様の功徳の話を聞いて喜ぶ功徳が莫大なのである。

 なお折伏したときに、相手が聞く聞かないは別問題なのだ。同じく随喜品には、法華経の説法があるからと人を誘うことが、すでに功徳を積んでいるのだ。また、その会場へいって自分の座をつめてすわらせてあげることも、功徳を積むことになる。まして、自分から人に御本尊様の話をしてあげるのは、莫大な功徳を積んでいることになるのである。

 大聖人は四条金吾殿に与えられた御書に、主君の耳にこの法門を入れること ー 折伏をしさえすれば、謗法の主君に仕えていても、与同罪を免れるのだとおおせられている。

                (昭和三十二年十二月一日)