折伏(二)
前号にのべたように、人に宿命のあることは、仏法哲学においては明らかである。女と生まれるのも宿命である。男と生まれるのも宿命である。この宿命を、われわれがまず是認したとしても、それをどう打開するかという方法がなければ、ただわかったというだけで、すませることができようか。
釈迦はこの打開法について、アウトラインだけを説明している。かれはただ、法を守り仏法を尊重せよ、というにすぎない。いかなる仏法、いかなる仏の説を尊べというのか。五十年の間、かれはいろいろな説明をしているが、その根幹をあらわしてはいない。いや、あらわしているともいえる。それは法華経八か年の説法において、どこまでも強く説いてはいるのであるが、まだ、それが何ものとは明示していない。
ところが大聖人様になると、はっきりと明示している。ここに、釈迦の仏法と日蓮大聖人の仏法との相違がある。それを、いまの人たちは、なにも求めようとしていない。ゆえに、仏法は死んでいるといわれるのである。しからば、大聖人は過去の宿業を打開する方法をいつ、いかなるときに明示されたか。それには二段階がある。一つは、その理論であり、いま一つは、その実践方法である。まず、日蓮大聖人の学理的論理を、たんてきにいうならば、観心本尊抄によらなければならない。
観心本尊抄(御書全集二四六㌻)にいわく、
『私に会通を加えば本文を穢すが如し爾りと雖も文の心は釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を醸り与え給う』
この文章を読むにあたっては、大事な心がまえがある。釈尊といえば、インドの釈迦のことしか考えられないのが、日本人の通念である。もちろん、みなの知っていることであろう
が、釈とは釈迦族を代表し、尊とはその時の大聖を意味する名まえである。ゆえに、今日の日蓮宗学においては、釈尊ということばは、六種類に使いわけられている。
まず蔵経の釈尊、通教の釈尊、別教の釈尊、法華迹門の釈尊、法華本門文上の釈尊、法華本門文底の釈尊ということになる。妙法蓮華経の五字に因行果徳の二法を具足するとは、蔵・通・別・迹門・本門文上の本尊を具足するのである。さて、そこまでわかったとしても、これを自分の身に実行するには、なかなかにめんどうな問題である。そこで天台は、観念観法の法則によって、自己の心のなかにある仏の生命をほり出す道を研究したのである。
それは天台一流の考え方で、りっぱであると思うけれども、末法今時のわれわれには、すこぶる厳重な修行怯であって、なかなか、できがたいことである。
そこで大聖人は実践方法として、弘安二年十月十二日の大御本尊を中心として、これに南無することによって、一切の悪い宿業が消えて、よき宿業が生まれるのであると結論されたのである。仏教哲学者として、もっとも尊敬すべき方ではなかろうか。ある意味からいうならば、日蓮大聖人は哲学を教えられたのではなく、ご自分の哲学から生み出した実践の方法を、民衆に教えられた方である。
ゆえに、かかる大仏教哲学者の歩まれ教えられた哲学の道を批判するよりは、この大哲学者の決定された実践方法を、そのまま信じて、進むことこそが、幸福への道ではないだろうか。このゆえに、貧乏人が金持ちになり、気の弱いものが雄々しい心の持ち主となるのであり、吾人が折伏せよと、声を大にして主張するゆえんである。
(昭和三十二年十月一日)