組合活動と信仰

 

 北海道の炭労が、創価学会に対して『組織の問題として対決する』と決議し、一方においては、一部国鉄労組、ひいては総評・社会党も、これに同調するがごとき態度を示して、社会の注目をあびたが、組合活動は世間法の問題であり、信仰は仏法である以上、対決などということはおかしなことで、これ皆、組合幹部の誤認識より起こるところで、根本と枝葉、組合活動と信仰とに対する見識において、非常なる考え違いを犯しているという以外にはない。

 

 もともと、労働運動なるものは、一般労働者が資本階級の不当な搾取(さくしゅ)によって、しいたげられているとの見解から、社会制度の改革を叫び、労働者の生活向上をめざして、賃金の値上げや厚生施設の充実をはかり、勤労者の福祉に寄与せんとしているのである。その活動の目的とする生活的向上は、勤労者のひとしく望んでいるものであり、だれ人といえども否むものではない。否、むしろそれを、日常の願いとして働いているのではなかろうか。信仰の有無にかかわらず、ひとしく世人の願うところである。

 

 わが創価学会の活動は、御本仏日蓮大聖人のご精神を実践して、民衆救済の大折伏を行なうことにあるが、その目的とする、幸福生活への活動という点においては、なんら組合活動と相い対立することはなく、またこれを否定するものでもない。むしろ学会員の大半は勤労者であり、組合に所属している組合員である以上、その個人個人は、より強力に自らの生活改善のための組合活動に協力していると思う。また、こんごといえども、旺盛な生命力をもって、組合活動をしてゆくことに変わりはないのである。

 

 しかし、ここに忘れてならないことは、組合活動はあくまでも職場の福祉を目的とした幸福生活への手段であって、それが庶民の絶対的幸福ではないということである。たとえば、低賃金解消のために、組合がべースの引き上げを決議し、闘争の結果、三千円の増給をみても、各人が同じようにしあわせにはならない。借財や病人のある家庭と、健全な家庭との相違、また個人の習癖などによって、その結果はまちまちである。これを幸福にするしないは、個人差の問題であり、個人の生命力が決定する。この個々の生命の実相を究明し、旺盛な生命力による幸福生活実現の方法を説いているのが、大聖人仏法の根本原理である。かく考えるに、組合活動は相対的幸福生活への一手段であり、真の仏法実践は、絶対的幸福生活への根本方法である。

 

 かれは社会制度改善の一部分観であり、これは、強力な生命をつちかう人間革命である。ゆえに、仏法の生命哲学を基盤とした生活法すなわち、信仰プラス組合活動、組合活動プラス信仰でなければ、組合自体の目的も達せられず、幸福生活はなり立たないのである。

 

これは、同じく資本階級にもいえることである。資本主義思想に対抗し、資本階級のしあわせを奪うものではないが、一部分観であり、一手段であることになんら変わりはない。ゆえに、宿命打破の仏法を根底とする以外にこれら階級の幸福も、絶対、ありえないのである。

 

 また組合運動そのものの目的は是とするも、現在の組合活動が、正当なる活動を実践しているかというに、同じ労働者のなかにも階級ができていて、組合幹部はあたかも労働貴族ともいうべき存在となって、自らの政治的野心の温床となしているの感があり、その下積みとなって苦しんでいる労働者の、実に多いことを知らねばならない。今度の学会に対する不当なる決議も、これら組合幹部の、組織の動揺にともなって現われる結果を恐れての、顚倒した考えによるものである。これは今の組合が、いかに組合本来の目的をはなれ、幹部のための組合、組合のための組合組織になり下がっているかということを、如実に証明しているのである。

 

 ここにおいて、われわれの活動は、この下積みとなって労働運動によっても救われぬ、下級労働者の一人一人をも完全に救い切る闘争であり、これはひとり労働者階級のみでなく、あらゆる各層各社会の民衆救済を念願とする大聖業である。

 

 かくて日本中の下層労働者が、偉大な大御本尊の功徳を受けて、たくましく立ち上がり、世の資本階級といわれる階層も、正しい仏法を根底として行動するとき、そこには、おのずから両者共に妥協の道がひらけて、生産活動は好調となり、真実の平和社会が現出すると確信するものである。

                            (昭和三十二年七月一日)