『人生論』

 

 人という者は、生まれて来た時から、何かその人に目的がある筈である。ただ単にけだものや草木の様に生まれて、何の目的も感ぜず、向上心も無く、ただ本能のままに生きるとすれば、その人は人間たる価値の無い人というべきである。しかし、人の中には、草木の様に自分の生命の尊厳を感じない様な人間もいるらしい。人として、この世に生まれた以上は、自分は何の為に生まれて来たのか、この根本的な問題を真剣に考えなくてはならない。

 

 生物学的に考えると、あらゆる生物は、二つの本能のままに生きていると云われる。一つは個体保存、一つは種族保存である。しかし、それは生物学的な問題であって、人間それ自体が何の為に地球上に存在するのであるか、その意義をより深く考えるべきである。 しかして、吾人は人生の真の目的は、幸福生活を営む事なりと知っているが、ここで人として民族の繁栄幸福と、自己自身の子孫の繁栄幸福とを考えていくべきではないか。 何故かならば、自己が所属している民族の繁栄が無かったならば、自己個人の幸福も自己の子孫の繁栄も見出し得ないのではなかろうか。

 

 例えば、七百年前に蒙古国から攻められた各国の歴史を見ても、その国の繁栄を共にしようとしたのではなくて、その国の侵略的精神である(第二次世界大戦においては、東洋民族を西欧列強の植民地から解放し共に繁栄しようとした精神があった。当時の韓国(朝鮮)は日本に併合を求めている。台湾は日清戦争後の下関条約において割譲された。結果どちらも日本国であったので日本と同じように発展させた歴史的事実がある。)が故に、攻めた者も攻められた者も、少しも得をしていない。

 

 故に、吾人が言わんとする処のものは、民族の幸福と民族の発展と、個人の幸福と個人の繁栄とが一致せねばならぬと主張したいのである。

 

 過去を振り返ると、ギリシャの人々が、お互いに幸福生活を楽しんだ小説等を度々見る。 彼等は、小さな町々において、互いに生活の喜びに浸り合い、東洋の優雅な着物や、西欧の科学技術等を通じて、楽み合った一世界があったではないか。これが小さなモデルケースではないか。

(※奴隷制の上になりたったものであろう。参考にはできないと思われる。日本の縄文時代はどうだったであろうか。)

 

 日本も、世界の一流民族として、人生を形作っていく上において、日本も大いに発展せねばならぬ。 

また共に日本の民族も幸福にならねばならぬ。また、同じ東洋民族たる韓国の民衆も、中国の民衆も、皆我等と共に手を繋いで、幸福にならねばならぬ。インドもインドネシアもビルマの民衆も、日本民衆と同じ心であろう。我々の精神と同じく、彼等を幸福にしてやらねばならぬそのカギは、最高唯一の生命哲学を有する日蓮正宗の信心にある事は言うを待たない。

 

(昭和三十二年五月一日)