戸田城聖先生の巻頭言集 66 王仏冥合論 六、結論

 

    国立戒壇の功徳すなわち平和論

 

 政治は技術である。今、世界の政治学者は、政治学をもって、一つの科学として成立させようとして努力している。しかし、いまだ政治学を、科学として成立させえた人は一人もいない。それは、政治学と政治とを混同している考え方によるもので、政治を一つの技術とみて、その技術を対象としていないという大きな誤りがあるからである。

 たとえば、ここに旋盤工がいて、実際的にりっぱな技術おもっていたとする。かれは、意識するとしないとに関せず、旋盤という機械を取り扱う基本的方法によって、行動しているに違いない。その基本的方法が政治学であり、その旋盤を動かす技術が政治である。

 孔子も、あの戦国時代を、いかに治めようかと工夫したところに、儒教の政治学がある。それを、どう実践するかを悩んでいたのが、各時代の政治である。日本において、この儒教の政治学を、もっとも政治として実践したのが徳川家康である。

 今、世界の大勢を見るのに、政治学としての二つの流れが、はっきりと見出される。一つは、利潤追求の資本主義であり、今一つは、生産と配給の共産主義である。その是非善悪は別としても、これを政治として行なうには、技術として見なければならない。アイゼンハワー氏も、ブルガーニン氏も、共にその思想を、政治という技術に現わしてこそ、力ある真の政治家といえるであろう。

 ここに、見逃すことのできない一つの流れがある。それは、民族主義として、インドを中心とした中東民族の動きである。ネール氏が、あの微弱な民衆を率いながら、資本主義と共産主義の間に立って、大きな力をもっていることは、一つの政治的技術の現われで、かれの陰にあるものは、民族主義としての政治学である。

 かく考えてくるならば、吾人が、王仏冥合論を説くゆえんは、利潤追求の資本主義も、消費と生産の道をたどる共産主義も、また民族主義も、共につかみ得ない政治の実体を、示唆したものを述べんがためである。

 今かりに、杜会主義者が、社会政策というものを強調して、食えぬ老婆に六千円の金を与えたとしても、それは、老婆個人の幸福を決定してはいない。また、いかに原子爆弾の実験の禁止をしてみても、それ自体が個人の幸福を決定するものではない。今日あらゆる所で議題とされている問題は、社会の問題であるが、その社会と個人とは、たえず遊離しているではないか。社会の繁栄が、即個人の幸福と一致しないということが、むかしからの政治上の悩みではないか。

 ここに、日蓮大聖人が、政治と個人の幸福とは一致しなければならぬと主張あそばされたのが、王仏冥合論である。社会の繁栄は、一社会の繁栄であってはならない。全世界が、一つの社会となって、全世界の民衆が、そのまま社会の繁栄を満喫しなければならない。それが、王法と仏法との冥合である。日本民衆の幸福のために、他の民衆を犠牲にしてはならないし、アメリカ民衆の幸福のために、日本民衆を犠牲としてはならない。共産主義の一指導者の幸福のために、他国の民衆が犠牲になってはならない。

 世界の民衆が、喜んでいける社会の繁栄のなかに、各個人もまた、喜んで生きていけなければなるまい。それが、王仏冥合論の精神である。

                            (昭和三十二年四月一日)