戸田城聖先生の巻頭言集 65 王仏冥合論 五、実践活動の先例

 

   第五章、日行上人の実践活動

 

 日行上人が国諫をあそばされた時期は、むかしいうところの北朝のときで、光明天皇とそのときには称せられたお方に対してである。その烈々たるご精神は、大聖人いらいの大精神を伝承したものである。いま日有上人御物語抄を引き、次に諫文をのせることにする。

 

 日行上人の国諫について(富士宗学要集、相伝信条部の日有上人御物語聴聞抄佳跡上二二六㌻)

○日行上人の暦応年中の御天奏の時、白砂にひざまづき御申状を読み給ひしかば、紫宸殿の御簾の内に帝王御迁み有って瑞々と日行を御覧じけるが少し打ちそばむき給ひける程に、日行上人是れ如何なる御気色なる覧と在りければ、奏者御袈裟を抜ぎ給へと有りける程に、其の時白砂の上に扇を開き其の上に袈裟を置いて御申状を遊ばしければ、又打向ひ給ひて聞かせ給ひけるとなり。       (富士宗学要集 第八巻 史料類聚三四一㌻)

 

日行上人の御申状(宗祖滅後六十一年 足利尊氏)

 日蓮聖人の弟子日興の遺弟等謹んで君す、早く如来出世の化儀に任せ聖代明時の佳例に依って爾前迹門の謗法を棄捐し法華本門の正法を信仰せば四海静謐を致し、衆国安寧ならしめんと欲する子細の事。

 副え進す

 一巻 立正安国論 日蓮聖人文応元年の勘文

 一通 祖師日興上人申状の案

 一通 日目上人申状の案

 一通 日道上人申状の案

 

 一っ 三時弘経の次第

 右八万四千の聖教は五時の説教を出でず五千七千の経巻は八軸の妙文に勝れず、此れ則ち釈尊一代五十年説法の間前後を立てて権実を弁ず、所以に先四十二年の説は先判の権教なり、後八年の法華は後判の実教なり、而るに諸宗の輩権に付いて実を捨て前に依って後を忘れ小に執して大を破す未だ仏法の淵底を得ざるものなり、何に由ってか現当二世の利益を成ぜんや、経に曰く正法冶国邪法乱国と、若し世上静謐ならずんば御帰依の仏法豈邪法に非ずや、是法住法位世間相常住と云えり、若し又四夷の乱あらんに於ては寧ろ正法崇敬の国と謂つべけんや、悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行らず、謗法の悪人を愛敬せられ正法の行者を治罰せらるるの条何ぞ之を疑わんや、凡そ悪を捨て善を持ち権を破して実を立つるの旨は如来化儀の次第なり、大士弘経の先蹤なり又則ち聖代明時の佳例なり、最も之れを糺明せらるべきか。

 此に於て正像末の三時の間四依の大士弘通の次第あり、所謂正法千年の古月氏には先ず迦葉阿難等の大羅漢小乗を弘むと雖も後龍樹天親等の大論師小乗を破して権大乗を弘通す、像法千年の聞漢土には則ち始め後漢より以来三北七の十師の諸宗を崇敬すと雖も陳隋両帝の御宇南岳天台出世して七十代五百年御帰依の仏法を破失し法華迹門を弘め乱国を治し衆生を度す、倭国には亦欽明天皇より以来、二百年二十代の間南都七大寺の諸宗を崇めらるると雖も、五十代桓武天皇の御宇伝教大師諸宗の謗法を破失して叡山に天台法華宗を崇敬せられ夷敵の難を退け乱国を治す。

 是に又末法の今上菩薩出世して法華会上の砌虚空会の時教主釈尊より親り多宝塔中の付嘱を承け、法華本門の肝要妙法蓮華経の五字並に本門の大曼荼羅と戒壇とを今の時弘べき時尅なり、所謂日蓮聖人是れなり、耐るに諸宗の族只信ぜざるのみに非ず剰え誹謗悪口を成すの間和漢の証跡を引いて勘文に録し明時の聖断を仰ぎ奏上を捧ぐと雖も今に御信用なきの条耐え難き次第なり。

 所謂諸宗の謗法を停止せられ当機益物の法華本門の正法を崇敬せらるれば四海の夷敵も頭を傾け掌を合せ一朝の庶民も法則に順従せん、此れ乃ち身のために之れを言さず、国のため君のため法のため恐々言上件の如し。

   暦応五年三月                     日 行

 

   第六章、日有上人の実践活動

 日有上人の国諫の時は、永享四年、すなわち紀元二千九十二年祖滅後一五〇年である。すなわち御花園天皇の御代で、時の将軍は六代足利義教である。家中抄によれば『又先師の旧業を継がんと欲し永享四年富士を出でて華洛に至り奏聞す』とあるから、先師にならって、

京都へお出になったことは確かであろう。いまその勘文を次にのせる。

 

 日有上人御申状(宗祖滅後一五一年 足利義教)

 日蓮聖人の弟子日興の遺弟日有誠惶誠恐謹んで言す。

 殊に天恩を蒙り且は諸仏同意の鳳詔を仰ぎ且は三国持法の亀鏡に任せ正像所弘の爾前迹門の謗法を棄捐せられ、末法適時の法華本門の正法を信敬せらるれば天下泰平国土安穏ならしめんと請うの状。

  副え進す

  一巻 立正安国諭 日蓮聖人文応元年の勘文

 一通 日興上人申状の案

 一通 日目上人申状の案

 一通 日道上人申状の案 一通、日行上人申状の案

 

 一つ 三時弘経の次第

 右謹んで真俗の要術を撿えたるに治国利民の政は源内典より起り帝尊果報は亦供仏の宿因に酬ゆ、而るに諸宗の聖旨を推度するに妙法経王を侵され一国を没し衆生を失う、庶教典民に依憑して万渡を保ち如来勅使の仏子を蔑る、緇素之れを見て争か非情を懐かざらんや。

 凡そ釈尊一代五十年の説法の化儀興廃の前後歴然たり、所謂小法を転じて外道を破し大乗を設けて小乗を捨て実教を立てて権教を廃す、又迹を払って本を顕す此の条誰か之れを論ずべけんや、況んや又三時の弘経は四依の賢聖悉く仏勅を守って敢て縦容たるに非ず爰を以て初め正法千年の間月氏には先ず迦葉阿難等の聖衆小乗を弘め、後に龍樹天親等の大士小乗を破して権大乗を弘む、次に像法千年の中末震旦には則ち薬王菩薩の応作天台大師南北の邪義を破して法華迹門を弘宜す、将又後身を日本に伝教と示して六宗の権門を拉き一実の妙理に帰せしむ。

 然るに今末法に入っては稍三百余歳に及べり・正に必ず本朝に於いては上行菩薩再誕日蓮聖人法華本門を弘通して宜しく爾前迹門を廃すべき爾の時に当り已んぬ・是れ併しながら時尅と云い機法と云い進退の経論明白にして通局の解釈炳焉たり、寧ろ水影に耽って天月を褊し日に向って星を求むべけんや、然るに諸宗の輩所依の経々時既に過ぎたる上、権を以て実に混じ勝を下して劣を尊む、雑乱と毀謗と過咎最も甚し、既に彼れを御帰依の間仏意快からず聖者化を蔵し善神国を捨て悪鬼乱入す、此の故に自界の親族忽ちに叛逆を起し他国の怨敵弥よ応に界を競うべし、唯自他の災難のみに非ず剰え阿鼻の累苦を招くをや。

 望み請う殊に天恩を蒙り爾前迹門の諸宗の謗法を対治し法華本門の本懐と戒壇と並びに題目の五宇とを信仰せらるれば広宣流布の金言宛も閻浮に満ち闘諍堅固の夷賊も聊か国を侵さじ仍て一天安全にして玉体倍々栄耀を増し四海静謐にして土民快楽に遊ばん日有良や先師の要法を継いで以て世のため法のため粗天聴に奏せしむ、誠惶誠恐謹んで言す。

   永享四年三月                      日 有

 

 

 以上のごとく、王仏冥合の政体たらんことを願った大聖人の精神は、上代においては、はつらつとして見られたのである。それが中代以後絶えたるゆえんは、五十九世日亨上人著の史料類聚に、本師がのべられたおことばによって、十分理解できるであろう。いま、これを引用する。

 

 大聖人の弘教は慈念の迸るところ急速なる国家救済にあるが故に便宜に従って寸時も逆化の手を緩めず、清澄に在る時は其の周囲に鎌倉に在る時は其の大衆に毒皷を撃ち、遂に時の執権北条家に他教徒と対論を要請せられたるより、此れが国法に触れたりとして流刑死刑に及んだのであるが、三諫の後官憲稍其の為国護法の誠意を認めたるも所志貫徹は鴬束無きを以て、遂に政都を去り山籠以来更に帝王に諫状を作り門弟子をして献覧に供えられた、已来大法広布の暁までは代々の後継法主此の鴻旨を奉体し身命財を抛って時宜の国諫を為すを宗規とす、然りといえども乱世に在りては其の主権の所すら判然せず悪吏間を距て容易に願書の受理すら行なわれず、此を以て公家武家共に其の目途を成すまでには巨額の資材を以て運動し必死の覚悟を以て猛進せざるべからず、他門にして日像の三黜三陟の如く日什奏聞記及び穆記に示す如く日親の文献に在るが如く困難にして効験甚だ薄く自門にして日郷日要の如く準備に大苦労を為して所得少なく、況んや戦国時代は上下自他共に疲弊の極に達し国諫の大望よりも大金を費して不入の訴訟に成功せざるべからず、徳川偃武の後は巧妙綿密なる政策に拘束せられて僧分は手も足も使えぬ事となって知らず知らず国諫を閑却するに至り、遂に堅樹日好の如き爆弾漢を生ずるに至ると雖も如何ともする能わず、徒に官の為す所に放任す、時なるかな幕末内憂外患天変地天興盛にして諫め易きの好時機を迎えて初めて数箇の諫聖出でて宗意を有司に暢達するを得たれども、遂に素願は望み遠し、殊に明治の聖代民権大に伸張して諸願達成せられざる無きも、此の一願に於いて成就の望少なき事戦国幕政時代に加上す、此を以て上御一人の聖意を動かす事の容易ならぬに加えて下億兆の輿論を改善せざるべからざるの苦難を凌がざるべからず、幸か不幸か諫状の急策暫く絶望に帰す。 (以上)

 

 右の御文によって明らかである。これをもって、王仏冥合論の実践活動の先例を終わることにする。                      (昭和三十二年三月一日)