戸田城聖先生の巻頭言集 64 王仏冥合論 五、実践活動の先例

 

   第二章 日興上人の実践活動

 日興上人もまた宗祖大聖人のお心を心として、五、六度にわたって、王仏冥合の精神を国家に対してのべられている。いま記録として残っている三通をもって、御開山上人のご意志を明らかにする。特に心すべきは、最後の元徳二年の申状ののち四年にして、北条氏の滅びていることである。この最後の申状が、祖滅後四十九年に当たっているのである。

 

①正応二年の御申状(宗祖滅後八年 執権・北条貞時)

 

 日蓮聖人の弟子日興重ねて申す。

 

 早く真言・念仏・禅・律等の邪法興行の僧徒を破却して妙法蓮華の首題を崇敬せられ、天下泰平・国土安穏・異国降伏の祈りに資せんことを請うの状。

 副え進す

 一巻 立正安国論 文応(ぶんのう)元年之を(かんが)がう

 一巻 文永(ぶんえい)八年の申状

 (くだん)の条・先度(せんど)(つぶさ)言上(ごんじょう)(おわ)んぬ、而るに今に早聴(そうちょう)に達せざるの間(かさ)ねて申す所なり、先師聖人雪行(せつぎょう)床頭(しょうとう)に積んで教源(きょうげん)(かわ)かんと欲するを(うるお)(けい)(こう)窓前(そうぜん)()(ほう)(とう)の滅せんと欲するを(かか)稽古(けいこ)浅しと雖も偏に是の(とどこお)りを(とど)む、(ここ)に諸経の説相(せっそう)(かんが)え見るに妙法蓮華経の首題は一条の肝要(かんよう)諸仏の本懐なり之を以て正法となす、真言念仏禅律等は()(ぜん)権説(ごんせつ)(もっぱ)(せい)()(そむ)くなり之を以て邪法となすなり、世(ぎょう)()に及びて正法を捨離し人悪心に帰して邪法を賞翫(しょうがん)す、(ここ)()って守護の善神は国を避け怨敵の悪鬼は便(たよ)りを得、異賊(いぞく)襲い来て国を攻め疫病充満して災を成す国土の衰弊(すいへい)人民の滅亡()の時に当れり()()悲しいかな国は邪法の興行に()って(たちまち)に亡びんと欲し人は悪心の()(じょう)に依って将に難に逢わんとす。

 聖人独り歎いて世を明し思うて日を渉る、此の瑞相を(かんが)みて国土安全の為に去る文応年中立正安国論を作り上覧(じょうらん)(そな)うと雖も御裁断を相待たずして聖人入滅し(おわ)る、今国体を見るに併せて彼の勘文に符合す(いかで)か之を賞せられざらんや、勁松(けいしょう)(さい)(かん)(あら)われ忠臣は国危(こくき)(あら)わる、(よっ)(ゆい)(てい)()つは先師の欝憤(うっぷん)を散ぜんが為め、()つは仏法の興隆を遂げんが為め重ねて上裁(じょうさい)()る所なり、是れ法の為め国の為め之を()ぶと雖も身の為め利の為め之を申べず、凡そ先代以来法華を弘むるの(るい)(いま)だ題目を流布せず法滅の時を期する故なり、(しか)るに日蓮聖人仏の使となり生を末世に受けて正法を弘め志を求法(ぐほう)に寄せて(えん)()を悟る、(もっと)も正法を崇敬せば離散の仏神帰り来って国土を守護して夭孽(ようげつ)(ふせ)ぐべし。(※夭孽(ようげつ):わざわい)

 抑も伝教大師弘むる所の法華は(なお)以て迹門(しゃくもん)なり、先師聖人弘むる所の法華は(もっぱ)ら以て本門なり、浅深炳焉(せんじんへいえん)たり之を採択(さいたく)する処用捨(ゆうしゃ)(よろし)顕然(けんねん)たるべし、所詮邪法興行の僧徒に召し合せられて問答を遂げ法の邪正を糾明(きゅうめい)せられて邪法を破却(はきゃく)し正法を崇敬(すうけい)せられば彼の異賊(いぞく)滅亡し此の国土興復(こうふく)せんのみ、()って重ねて言上(ごんじょう)すること(くだん)の如し。

  正応二年正月 日

 

②嘉暦二年の御申状(宗祖滅後四十六年公家上奏の分なり)

 

 日蓮聖人の弟子・駿河の国冨士山住・日興誠惶誠恐・庭中に言上す。殊に天恩を蒙り且つは三時弘経の次第に任せ且つは後五百歳の金言に依り永く爾前述門を停止し法華本門を尊敬せられんと請うの子細の状。

 

 副え進す

 一巻、立正安国諭(文応元年の勘文並に三時弘教の図等)

 

 右謹んで案内を(かんが)えたるに仏法は王法の崇重(すうちょう)に依りて()を増し王法は仏法の擁護(おうご)()りて(もと)(ひら)く、是れを以て大覚世尊未来の時機を鑑みて世を三時に分ち法を四依(しえ)に付して以来、正法千年の内迦葉阿難(かしょうあなん)等の聖者先に小を弘め大を略し、龍樹天親等の論師次に小を破し大を立つ、像法千年の間異域(いいき)には(すなわ)(ちん)(ずい)両主の明時に智者十師の邪義を破し、本朝には亦(かん)()天皇の聖代(せいだい)伝教(でんぎょう)六宗の僻論(びゃくろん)(あらた)む。

 今末法に入っては上行出世の境本門流布の時なり正像(しょうぞう)(すで)に過ぎぬ何ぞ爾前迹門を以て(あなが)ちに御帰依有るべけんや、(はか)り知んぬ、讒佞叡聞(ざんねいえいぶん)(へだ)て邪義正法を(さまた)ぐ如来得道の昔尚魔障(ましょう)有り(いか)(いわ)んや末代をや、(しか)るに聖主御宇(ぎょう)の今や時機(じき)(すで)に又至れり、弘通(ぐつう)()幾日ぞや、(なか)()く天台伝教は像法の時に当って演説し日蓮聖人は末法の代を迎えて恢弘す、彼れは薬王の後身此れは上行の再誕なり、経文に載する所解釈に炳焉なる者なり。

 凡そ一代教迹の濫觴は法華の中道を説かんが為なり、三国伝持の流布蓋ぞ真実の本門を先とせざらんや、若し瓦礫を貴んで珠玉を棄て燭影を捧げて日光を哢せば只風俗の迷妄に趁って世尊の化導を謗するに似たるか、華中に優曇有り木中に栴檀有り凡慮覃び難し併ら冥鑑に任す、偏に堯舜の道を嗜み揚墨の門に立たず、今適ま聖代に逢う早く下情を達し将に上聴を驚かさんとす、天裁を望み請う且は仏意を察せられ且は皇徳を施され、速かに爾前迹門の邪教を退け法華本門の妙理を弘められば海内静謐にして天下泰平ならん、日興誠惶誠恐謹んで言す。

   嘉暦二年八月 日

 

③元徳二年の申状(宗祖滅後四十九年執権北条守時)

 日蓮聖人の弟子日興重ねて言上。

 早く爾前迹門の謗法を対治し法華本門の正法を立てらるれば天下泰平国土安全たらんと欲する事。

 副え進す、先師申状等

 一巻 立正安国論 文応元年の勘文

 一通 文永五年の申状

 一通 同八年の申状

 一つ 所造の書籍等

 右度々具に言上し畢んぬ、抑も謗法を対治し正法を弘通する治国の秘術聖代の佳例なり、所謂漢土には則ち陳随の皇帝天台大師十師の邪義を破して乱国を治す、倭国には亦桓武天皇伝教大師六宗の謗法を止めて異賊を退く、凡そ内に付け外に付け悪を捨て善を持つは如来の金言明王の善政なり、爰に近代天地の災難国土の衰乱歳を遂て強盛なり、然れば則ち当世御帰依の仏法は世のため人のため無益なること誰か之を論ずべけんや、凡そ伝教大師像法所弘の法華は迹門なり、日蓮聖人末法弘通の法華は本門なり、是れ則ち如来付属の次第なり、大師の解釈明証なり、仏法のため、王法のため早く尋ね聞こし食され急ぎ御沙汰あるべきものか、所詮末法に入っては法華本門を建てられざるの間は国土の災難日に随って増長し自他の叛逆歳を逐うて蜂起せん、是れ等の子細具に先師所造の安国諭並に書籍等に勘え申すところ皆以て符合せり、然れば則ち早く爾前迹門の謗法を対治し法華本門の正法を立てらるれば天下泰平国土安全たるべし、仍て世のため重ねて言上件の如し。

   元徳二年三月                      日  興

 

  第三章 日目上人の実践活動

 日目上人の実践活動については、富士宗学要集の史料(しりょう)類聚(るいじゅ)に、(ほり)(にち)(こう)上人がおしたためになった全文を引用することによって諒解(りょうげ)することと思う。

 

 ○目上は一代の間四十二度の御天奏なり、或は高祖開山の御代官或は自分の奏状なり、四十二度目正慶二年癸酉(みずのととり)御上洛の時・美濃の国樽井(たるい)に於いて、地盤行躰(じばんぎょうたい)勤労(きんろう)の上・長途の窮屈老躰(きゅうくつろうたい)(すい)(びょう)(こと)に雪中寒風の時分たる間こごゑ(凍)給い既に御円寂霜月(ごえんじゃくしもつき)十五日なり。

                    (富士宗学要集 第八巻 史料類聚三三八㌻)

 

日目上人申状(宗祖滅後五十二年 護良親王)

 日蓮聖人の弟子日目(にちもく)誠惶誠恐(じょうこうじょうきょう)(つつし)んで言す、殊に天恩を蒙り且は一代説教の前後に任せ(かつ)は三時弘教の次第に準じて正像所弘の爾前迹門の謗法を退治し末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められんと請うの状。()(まいら)す。

 一巻 立正安国論 祖師日蓮聖人文応元年の勘文

 一通 先師日興上人申状 元徳二年

 一通 三時弘経の次第

 右謹んで案内を(かんが)えたるに一代の説教は独り釈尊の遺訓なり、取捨宜しく仏意に任すべし、三時の弘経は即ち如来の告勅なり進退全く人力に非ず。

 抑も一万余宇(よう)の寺塔を建立し恒例の(こう)(きょう)(りょう)()を致さず三千余の社壇を崇め如在の礼奠怠懈(れいてんたいげ)せしむることなし、然りと雖も顕教密教の護持も叶わずして国土の災難日に随って増長し、大法秘法の祈禱も験なく自他の叛逆(ほんぎゃく)(とし)()うて強盛なり、神慮(しんりょ)(はか)られず仏意思い難し、(つらつ)ら微管を傾け(いささ)か経文を披きたるに仏滅後二千余年の間正像末の三時流通の程、迦葉龍樹天台伝教の残したもうところの秘法三あり所謂法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり、之れを信敬せらるれば天下の安全を致し国中の逆徒を(しず)めん、此の条如来の金言分明なり大師の解釈炳焉(げしゃくへいえん)たり、(なか)()く我が朝は是れ神州なり神は非礼(ひれい)を受けず、三界は皆仏国なり仏は則ち謗法(ほうぼう)(いまし)む、然れば則ち爾前迹門(にぜんしゃくもん)の謗法を退治せば仏も(よろこ)び神も(よろこ)ぶ、法華本門の正法を立てらるれば人も栄え国も栄えん、望み請う(こと)に天恩を(こうむ)り諸宗の悪法を棄捐(きえん)せられ一乗妙典を崇敬せらるれば金言しかも(あやま)たず、妙法の唱・閻浮(えんぶ)に絶えず玉体恙(ぎょうくたいつつが)無うして宝祚(ほうそ)の境天地と(きわ)まり無けん、日目先師の地望(ちもう)()げんがために後日の天奏に達せしむ、誠惶誠恐(つつし)んで言す。

   元弘三年十一月                      日  目

 

 これは、もちろん北条氏滅亡の後であるから、京都の天皇に諫暁あそばされたことは、いうまでもない。

 

   第四章 目道上人の実践活動

 日道上人におかれては、その志、先師に劣ることはないとしても、そのご境遇上、天奏の実行に移れなかったように拝せられる。この間の事情は、富士宗学要集・史料類聚を引用することによって、十分、領解することができると思う。

 

○道師は諫状を草案しかけたるも奉呈するの機なし、日寛上人補足懲して現申状を作りて其の志を満せりとの説あり、或は然らん延元元年二月は蓮蔵坊事件の当時なり、何ぞ上洛の暇あらん、鎌倉すらも覚束なき時なり、然りと云えども寛師已前の古目録に猶道師申状あり、他日の檢定に俟つ。(富士宗学要集 第八巻 史料類聚三三八㌻)

 

日道上人の御申状(宗祖滅後五十五年 足利尊氏)

 日蓮聖人の弟子日興の遺弟日道・誠惶誠恐謹んで言す、殊に天恩を蒙り爾前迹門の謗法を対治し法華本門の正法を建てらるれば天下泰平、国土安穏ならんと請うの状。

 副え進す

  一巻 立正安国諭 先師日蓮聖人文応元年の勘文

  一通 先師日興上人申状の案

  一通 日目上人申状の案

 

 一、三時弘経の次第

 右遮那覚王の衆生を済度したもうや権教を捨てて実教を説き、日蓮聖人の一乗を演説したもうや謗法を破して正法を立つ、謹んで故実を撿えたるに釈迦善逝の本懐を演説したもうや則ち四十余年の善巧を設け、日蓮聖人の末世を利益したもうや則ち後五百歳の明文に依るなり、凡そ一代の施化は機情に赴いて権実を判じ、三時の弘経は仏意に随って本迹を分つ、誠に是れ浅きより深きに至り権を捨て実に入るものか。

 是を以て陳朝の聖主は累葉崇敬の邪法を捨てて法華真実の正法に帰し、延暦の天子は六宗七寺の慢幢を改めて一乗四明の寺塔を立つ、天台智者は三説超過の大法を弘めて普く四海の夷賊を退け、伝教大師は諸経中王の妙文を用いて鎮に一天の安全を祈る、是れ則ち仏法を以て王法を守るの根源、王法を以て仏法を弘むるの濫觴なり、経に曰く正法治国邪法乱国と云云。

 抑も未萠を知るは六聖の聖人なり蓋し法華を了するは諸仏の御使なり、然るに先師日蓮聖人は生智の妙悟深く法華の淵底を究め天真独朗玄かに未萠の歳孽を鑒みたもう、経文の如くんば上行菩薩の後身遣使還告の薩埵なり、若し然らば所弘の法門寧ろ塔中伝附の秘要末法適時の大法に非ずや。

  然れば則ち早く権迹浅近の謗法を棄捐し本地甚深の妙法を信敬せらるれば、自他の怨敵自ら槯滅し上下の黎民快楽に遊ばんのみ、仍て世のため法のため誠惶誠恐謹んで言す。

   延元元年二月                      日  道

                            (昭和三十二年一月一日)