戸田城聖先生の巻頭言集 54 広宣流布と文化活動()

 

 広宣(こうせん)流布(るふ)については、二つの意義がある。それは、化法(けほう)の広宣流布と、()()の広宣流布である。化法の広宣流布は、在世においては(りょう)鷲山(じゅせん)の八年、末法においては日蓮大聖人の時である。化儀の広宣流布は、理の一念三千の広宣流布は、中国では(ちん)の天台大師の時、わが朝においては、(かん)()の伝教大師の時である。末法事の一念三千の化儀の広宣流布は、七百年来、言い伝えられてはきたが、いまだ実現されてはおらない。化儀の広宣流布とは、国立戒壇の建立である。この広宣流布について、大聖人のご予言及びその思想の根底となるべきものは、左の御書にうかがい知ることができる。

 

 三大秘法禀承事(ぼんじょうのこと)(御書全集一〇二二㌻)にいわく、

 

『戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を(たも)ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時勅宣(ちょくせん)並に御教書を申し下して霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔(ざんげ)滅罪(めつざい)の戒法のみならず大梵天王帝釈(だいぼんてんのうたいしゃく)等も来下して()み給うべき戒壇なり』

 

 また、一期(いちご)弘法(ぐほう)御書(ごしょ)(御書全集一六〇〇㌻)にいわく、

 

『日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱(ふぞく)す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中(なかんづく)我が門弟等此の状を守るべきなり。

 弘安五年壬午(みずのえうま)九月 日        日 蓮  在御判

                    血脈の次第 日蓮日興』

 

 以上二つの御書において、深く考えてみねばならぬ個所がある。すなわち、戒壇の建立の付嘱は、別しては日興上人にのみあり、総じては弟子壇那一同に対してあったのである。

『日蓮一期(いちご)の弘法・白蓮阿闍(びゃくれんあじゃ)()日興(にっこう)に之を付嘱(ふぞく)す』の付嘱は、第二祖日興上人への別付嘱を意味し、『就中我が門弟等此の状を守るべきなり』とは、弟子壇那への総付嘱を意味する。

 また、日興上人二十六置文(おきぶみ)(御書全集一六一八㌻)のなかには、

 

『未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事』とのおおせがある。この御文は、日興上人が、重ねて滅後の弟子壇那へ、総付嘱をなされていることと拝すべきである。

 かくして、付嘱を受けたる弟子壇那が、七百年近くの間、ただ夢のごとく、広宣流布、広宣流布と叫んできたのである。どうすれば広宣流布ができるのか。広宣流布をしなければならぬということは、日蓮宗宗門徒は、頭のなかにクギを刺されたように、当然であると思いこんでいるだろう。もちろん、そうあるべきである。しかし、宗祖及び御開山いらい、広宣流布ということは当然ではあるが、どうしたらよいかということについては、時代時代の歴史について、振り返ってみよう。

 

 第三祖、日目(にちもく)上人(しょうにん)の、垂井(たるい)の花と散られるまでの、数回の、京都における上奏(じょうそう)(ぶん)、第四世、第五世、日道、日行上人にいたる申状(もうしじょう)のなかに、はっきりと、国諫(こっかん)ということが、あらわれている。これらは、皆帝王付嘱(ていおうふぞく)(守護・付嘱)の意味においての活動が、徳川時代、及び明治の時代までに流れた思想であって、権力者によって、広宣流布しようとした考え方、及び二祖日興上人様の、『未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通(ずいりきぐつう)を致すべき事」の思想のもとに、強信の者が、命を捨てて法難と戦ってきた歴史は、数多いのである。しかしながら、いまだ広宣流布のきざしすらみえなかった。これ観心本尊抄(御書全集二五三㌻)において、大聖人が、天台の時をさして、『円機有って円時無き故なり』とのおおせに似たる方程式によるものか。

                            (昭和三十一年三月一日)