戸田城聖先生の巻頭言集 38『青年よ国士たれ』(国士訓)
我らは、宗教の浅深善悪正邪を何処までも研究する。 文献により、或いは実態の調査により、日一日も怠る事はない。如何なる宗教が正しく、如何なる宗教が邪であるか、また如何なる宗教が最高であり、如何なる宗教が低級であるかを、哲学的に討究する。また如何なる宗教が人を救い、如何なる宗教が単なる観念的なものであり、如何なる宗教が人を不幸にするかを、その実態を科学的に調査している。
思考してその要を得て、日蓮正宗こそ真実であり、最高の宗教である事を知った。かかる時に陥り易き考えは、我らは宗教家であるとの錯覚である。我らは決して宗教家であってはならぬ。しからば、我らは如何なる見識を持つべきものか。
吾人は叫ぶ、『諸君よ!諸君らは吾人と共に、日蓮正宗のよき信者であり、後世に誇るべき国士であるとの見識の上に立て』と。抑も、吾人らが正しき宗教を求めた所以のものは、この地上の不幸がその原因である。
諸君よ、目を世界に転じ給え、世界の列強国も、弱小国も、共に平和を望みながら、絶えず戦争の脅威に脅かされているではないか。一転して目を国内に向けよ。政治の貧困経済の不安定自然力の脅威、この国に、何処に安処なる所があるであろうか。『国に華洛の土地なし』とは、この日本の国の事である。 隣人を見よ! 道行く人を見よ! 貧乏と病気とに悩んでいるではないか。 物価は高くして、絶えず生計の不足を嘆く者、住むに家無くして心鬱々として楽しまざる者、事業不振に慄く者、破産に貧して戸惑う者、数えあげれば数限りがない。 また肺病と宣言せられて、生きる心地なき者、小児マヒの子を持ちて、何処に訴える術なき者、背むし、盲、つんぼ、胃癌等々、どうしようもなく、神も仏も無きかと呟く者のみである。
『不幸』よ! 汝は何処より来たり、何処へ去らんとするか。 目を上げて見るに、今、国を憂い大衆を憂うる者は、我が国人に幾人ぞ。国に人無きか、はたまた利己の人のみ充満せるか。これを憂うて、吾人は叫ばざるを得ない、日蓮大聖人の大獅子吼を!
『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず』
この大獅子吼は、我三徳具備の仏として、日本民衆を苦悩の底より救い出ださんとのご決意であられる。 我らは、この大獅子吼の跡を紹継した良き大聖人の弟子なれば、また共に国士と任じて、現今の大苦悩に沈む民衆を救わなくてはならぬ。
青年よ、一人立て!
二人は必ず立たん、
三人はまた続くであろう。
かくして、国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救い得る事、火を見るよりも明らかである。
青年は国の柱である。柱が腐っては国は保たない。諸君は重大な責任を感じなくてはならぬ。
青年は日本の眼目である。批判力猛しければなり。眼目破れては如何にせん。国の行くてを失うではないか。諸君は重大な使命を感じなくてはならぬ。
青年は日本の大船である。大船なればこそ民衆は安心して青年を頼るのである。諸君らは重大な民衆の依頼を忘れてはならぬ。
諸君よ!良き日蓮正宗の信者として、強き生命力を養い、誉れある国士として、後世に名を残すべきである。
(昭和二十九年十月一日)