戸田城聖先生の巻頭言集 37『譬如良医について 2』
『聡達』とは、天台家では、五眼目をもって衆生の機根を見て間違わないのをいうといっているが、当家においては、末法の御本仏が、妙法蓮華経の智慧をもって末法の衆生の機根をみて、末法の衆生は、妙法蓮華経によって救われる以外にないことを知っておられて違わないことをいうのである。
『方薬』とは、台家では、十二部経なりというも、当家においては、妙法蓮華経の五字七字すなわち、三大秘法の御本尊を意味するのである。
『善治衆病』とは、台家では、四悉檀によって衆生の病をなおすといっているが、当家の文底の意(こころ)は、末法の衆生は苦に没在しているが、御本尊を拝し題目を唱えて大聖人に準じて折伏するがゆえに、必ず幸福の境涯を得るのことをいうのである。
『其人多諸子息・若十二十・乃至百数』文上の意は『諸子』とは所化の衆生、『若十』とは声聞、『二十』とは縁覚、『百数』とは菩薩である。文底の意は、十界の衆生ことごとくを指し、そこに十・二十・百数の区別はないのである。
『以有事縁・遠至余国』文上の仏は、事縁あって、すなわち事縁とは、仏が一切を利益する縁のことで、その縁をもって、遠く余国に至ったのである。『遠く余国に至る』とは、この土に涅槃の相を示して、他の仏土の衆生の機縁の熟するところに至ったのである。すなわち、仏の生命の永遠の相を説いたのである。滅して滅せざる姿であって、これは、いちおう当流においても認めるところであるが、文底の意においては、この仏は、ことごとく本仏無作三身の垂迹である。すなわち、宜しきにしたがって迹を垂れられたのであって、御本仏自体は、出ずるにもあらず、没するにもあらず、常住にして、その末法の事縁において再誕せられるのである。
『諸子於後・飲佗毒薬・薬発悶乱・宛転于地』
『飲佗毒薬』とは、台家によれば、仏の滅後において、外道の教えを毒薬というのであり、『宛転于地』とは、出離の道を知らないで、三界を輪廻することであるが、当流においてはしからず。先の『方薬』が妙法蓮華経である以上、妙法蓮華経に対して『佗』の毒薬をいうのであるから、妙法蓮華経以外のあらゆる低い教えを毒薬というのである。
『薬発悶乱』とは、邪義の教えがその生命にしみこみ、知らず知らずのうちに生活のなかにしみでて、煩(はん)悶(もん)苦(く)悩(のう)することで、『宛転于地』とは、地を転げ回るがごとく、生活に苦しみあえぐことであり、事業上に、家庭内に、病気に、いかようにも手のつけようがなく、あえぎきる生活それ自体である。
御義口伝(御書全集七五四㌻)にいわく、
『他とは念仏・禅・真言の謗法の比丘なり、毒薬とは権教方便なり法華の良薬に非ず故に悶乱するなり悶とはいきたゆるなり、寿量品の命なきが故に悶乱するなり宛転于地とは阿鼻地獄へ入るなり云云、諸子飲毒の事は釈に云く「邪師の法を信受するを名(なず)けて飲毒と為す」と、諸子とは謗法なり飲毒とは弥陀・大日等の権法なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは毒を飲まざるなり」等云云。
(昭和二十九年九月一日)