戸田城聖先生の巻頭言集 36『譬如良医について 1』

 

 『譬如(ひにょ)良医(ろうい) 智慧聡達(ちえそうだつ) 明練方薬(みょうれんほうやく) 善治衆病(ぜんじしゅびょう) 其人多諸子息(ごにんたしょしそく) 若十二十(にゃくじゅうにじゅう) 乃至百数(ないしひゃくしゅ) 以有事縁(いうじえん) 遠至余(おんしよ)(こく) 諸子於後(しょしおご) 飲佗毒薬(おんたどくやく) 薬発悶乱(やくほつもんらん) 宛転于地(えんでんうじ)

 

 この寿量品の文は、今日、学会が他宗派を邪宗と断ずる依文である。 

今日、この読み方を解釈している者は、天台家に依っている者のみである。 

大聖人の『余が内証の寿量品』と仰せられる心地において、これを文字にして説いている者が、殆ど無い事を、吾人は遺憾とする。 故に、浅学不敏の身をもって、今大聖人のお教えに従って、これを説こうと企てたのである。

 

 内証の寿量品とは、大聖人のお悟りであり、末法御本仏の証智(しょうち)である。

 

 本因妙抄(御書全集876頁)に云く、

 

『今会釈して云く諸仏菩薩の定光三昧も凡聖一如の証道刹那半偈の成道も我が家の勝劣修行の南無妙法蓮華経の一言に摂し尽す者なり、此の血脈を列ぬる事は末代浅学の者の予が仮字の消息を蔑如し天台の漢字の止観を見て眼目を迷わし心意を驚動し或は仮字を漢字と成し、或は止観明静前代未聞の見に耽り本迹一致の思を成す、我が内証の寿量品を知らずして止観に同じ但自見の僻見を本として予が立義を破失して悪道に堕つ可き故に天台三大章疏の奥伝に属す、天台伝教等の秘し給える正義生死一大事の秘伝を書き顕し奉る事は且は恐れ有り且は憚り有り、広宣流布の日公亭に於て応に之を披覧し奉るべし、会通を加える事は且は広宣流布の為且は末代浅学の為なり又天台伝教の釈等も予が真実の本懐に非ざるか、未来嬰児の弟子等彼を本懐かと思うべきものか』云々

 

 また百六箇抄(御書全集863頁)に云く、

 

『自受用身は本上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり』云々。

 

 以上の大聖人の仰せに明らかな如く、文底の寿量品は、天台家の読み方とは全然違う事が明らかであろう。

 

 さて、『良医』とは、天台家によれば、単に如来(にょらい)と訳すのであるが、それも釈迦を意味しているのである。然るに、当流の(こころ)においては、久遠元初の自受用報身、即ち、無作三身如来(むささんじんにょらい)の事である。この自受用報身は、日蓮大聖人の本地である事は、次の日寛上人の観心本尊抄の文段(富士宗学要集 第四巻 疏釈部264)で明らかである。  

 

云く、『(いわ)く前の自受用(じじゅゆう)(せつ)して後の日蓮と(あらわ)す故なり、故に名異体同(みょういたいどう)の相伝に云く本地自受用報身の垂迹上行菩薩(すいじゃくじょうぎょうぼさつ)、再誕本門の大師日蓮等云々

 

 次に『智慧』とは、天台家によれば、権実の智と説くのであるが、当流においては、妙法蓮華経の智を『智慧』となすのである。

 

 曽谷殿御返事(そやどのごへんじ)(御書全集1055頁)に云く、

 

『夫れ法華経第一方便品に云く「諸仏の智慧は甚深無量なり」云云、釈に云く「境淵無辺(きょうえんむへん)なる故に甚深と云い智水測り難き故に無量と云う」と、(そもそ)も此の経釈の心は仏になる道は(あに)境智の二法にあらずや、されば境と云うは万法の(たい)を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、(しか)るに境の(ふち)ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり……此の境智の二法は何物ぞ(ただ)南無妙法蓮華経の五字なり、此の五字を地涌の大士を召し出して結要付属(けっちょうふぞく)せしめ給う是を本化付属(ほんげふぞく)の法門とは云うなり』

 

(昭和二十九年八月一日)