戸田城聖先生の巻頭言集 35 創価学会の信心に御利益のあるわけ

 

 大聖人、如説修行抄(御書全集五〇三㌻)にいわく、

「凡そ仏法を修行せん者は摂(しよう)折(しやく)二門を知る可きなり一切の経論此の二を出でざるなり、されば国中の諸学者等・仏法をあらあら学すと云へども時刻相応の道をしらず云云」

  またいわく、

『仏法も亦復是くの如し小乗の流布して得益あるべき時もあり、権大乗の流布して得益あるべき時もあり、実教の流布して仏果を得べき時もあり、然るに正像二千年は小乗権大乗の流布の時なり、末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり、……権実雑乱の砌なり云云』

 またいわく、

「一乗流布の時は権教有って敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり、天台云く、「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな云云』

 この御抄は、仏法において利益を得んとする場合には、時刻相応の教えを奉じなければならぬ、ということを説かれている。すなわち現代においては、時刻相応の教えというならば、富士大石寺にいます一閻浮提総与の御本尊を信ずることである。大聖人のお命たる大曼荼羅を信ずることであり、その大曼荼羅中の、極説中の最極説たる弘安二年十月十二日ご出現の総与の御本尊こそ、真の民衆救済のご本体であらせられる。

 しこうして、また、おおせのおことばは、その教えが雑乱したる時には、正しき教えより、誤れる教えを折伏してこそ真の仏果を得る、との原理を説かれていらせられるのである。大聖人ご在世の時は、権実雑乱して、法華経が唯一無二のものなるや、観経あるいは大日経が唯一無二なるものなるや、民衆には、けんとうのつかない時であった。ゆえに法華経を表とし、本尊を裏として、一切の権教を責めたもうたのである。

 三十年間の大聖人の大獅子吼は、権教をして、その息の根を止めたのである。されば、七百年の間、日に日に衰えて、現在の権教のやからは、単なる墓守りとして、葬式屋として、法事の役員として、その残がいをとどめているにすぎない。だれが、仏教家として、かのやからを、みるものがあるであろうか。

 ただ現在において恐るべきは、日蓮宗内の雑乱である。日蓮宗内の雑乱は、これすなわち本尊の雑乱によるのである。大聖人の極説中の最極説たる、富士大石寺の一閻浮提総与の大曼荼羅と、身延・中山・池上・立正交成会・霊友会・仏立宗・顕本法華宗・八品門流等々の得益もなければ本物でもない、かつ一切衆生を不幸にする本尊との正邪を、一般民衆が知らないのである。これすなわち、本尊の雑乱ではないか。このときこそ、時刻相応ということを知れる者は、正しき本尊より、よこしまな本尊を討(う)つべきである。これは、天台の〟法華折伏・破権門理〝の原理であり、大聖人の『権教有って敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し』との原理にかなった行動である。

 いま、日本国に、この仏法の原理にかなって、正しき本尊より、よこしまな本尊を討つ者ありやいなや。わが創価学会より以外断じてないと予は断言するものである。このゆえに、御本尊の御意にかなって、創価学会の信心においてご利益を得るのであることを断言するのである。

                            (昭和二十九年七月一日)