戸田城聖先生の巻頭言集 32『折伏について』

 

 孔子のいわく『己の欲せざるところを人に施す事勿れ』

 

 この言は、外道の論議といえども、相当に味わうべき言葉である。我々人性の常として、自分の好むものを、人にすすめ施すものである。相手の者が、その人と同一の好みの場合には、非常に喜ぶであろうが、反対の場合は、非常に迷惑をする。

 

 例えば、酒を好む人が、客に酒を強いたとする。客が酒好きであれば、非常に喜ぶが、甘党であったとしたら、非常な迷惑である。旅行好きな者が、旅行嫌いな者を誘うと、これまた非常な迷惑を感ずる。酒党の者に、甘い物を好きな者が、お菓子やお茶をすすめたとしたら、これまた大困りではあるまいか。徳川時代の小話に、貧乏人が馬を貰ったというのがある。江戸に住んでいて、貧乏人が馬を飼うという事は、大変な事件である。

 

 自分の好む物を他人に施すという事は、種々なる弊害はあるが、自分の欲しない物を、人に施さないという事は、他人に迷惑を及ぼさないという点で、すこぶる用心すぎた考えである。しかし、すこぶる小心な、消極的な感じがする。人生というものに、覇気というものを認められない。小心よくよくとして、月給取りで終わろうとする様な、宮仕えする人達の気持ちが、巧みに表されていると思われるではないか。

 

 しからば、己の欲するところを人に施せというのか。否々、吾人の主張するところのものは、他人の利益になるものを施せ、というのである。その人へ価値を施せというのである。吾人に、孔子の如く言わしめれば、他を利するものを、汝は施せと叫ぶのである。

 

 健康になる食物もよかろう。命を助ける米もよかろう。野菜も、味噌も、またしかなり、ましてや金においておや。こういう行為を、仏法では布施行というのである。天理教の様に、自分の方へ取り上げるのが布施行ではなくて一般に施すのを、真の布施行というのである。

 

 さて、この物の布施行というのについて、深く考察するならば今釈迦滅後3千年の今日においては、釈迦仏法の効力全く地におちて、濁悪のものが世に充満している。布施行において生ずるものは、怠惰と依頼心のみである。かつまた、物の布施には限りがあって、全体に平等に行き渡るものではない。早いもの勝ちというのが、世の当然ではないか。

 

 布施には、物の布施以外に、法の布施というのがある。末法今日における法の布施とは、三大秘法の大御本尊を布施する事である。この三大秘法の本尊を受けて、強盛に信心するならば、経文において明らかな如く、新しく強き生命力を得て、事業に、健康に、生き生きとした生活が始まってくる。その強き生命力より生まれ出るところの、金にしろ、米にしろ、健康にしろ、それは地から涌出するところの水の様なものであって、絶ゆる事がない。一回限りの功徳であり、限りある、物の布施に較べれば、荘厳なる布施ではないか。

 

(昭和二十九年二月二十八日)