戸田城聖先生の巻頭言集 25 信仰の在り方

 

 信仰は生活であって、観念の遊戯ではない。また信仰の目的は、心の慰め程度のものであってもならぬ。故に、もし信ずる本尊を間違えたならば、生活の根本が狂うのである故、生活も乱れ、幸福になる訳がない。されば、信仰の対象である本尊が問題になるのである。 しかるに、幸いにも、我ら日蓮正宗の信者は、絶対にして最高の本尊を頂戴して生活するのであるから、こんな幸福な事はない。

 

 我ら会員は、御本尊を信ずる事、それ自体が生活の全部でなくてはならぬ。何をするにも、根本に御本尊を置いて行動しなくてはならない

 

 しこうして、御本尊を拝む事だけで事足りるとは考えられぬ。何故ならば、我らの生涯は決して幸福なものではなく、常に色々な問題が起こってくる。その度毎に、ご本尊へお願いしなければならなくなってくるのは理の当然である。金がない、商売が繁盛しない、医者にも見放された等々の打開の願いを、御本尊にお願いするのである。この悩みは、誰に頼んでも解決の着くものではない。それを御本尊にお願いして救われようとするのであるから、御本尊の御用を足さなくてはならない事は、言うまでもない事である。

 

 こう言う訳であるから、お金を下さい、商売を繁盛させて下さい、難病を治して下さい等と、まるで御本尊がそうしなくては悪い様な、あたかも御本尊様に貸しでもある様に、また御本尊様にその義務があって、我々に権利がある様に考えては、相済まぬではないか。

 

 しかし、勿論御本尊は広大無比の慈悲と、譬えようのない功徳とをお持ちではあるけれども、我らとしては、御本尊の御用を足してこそ、その功徳と慈悲に甘えられる資格ができるのである。御本尊様の御用を足すとは、即ち折伏であって、折伏をする者ほど、御本尊様が愛されるのは当然である。 

そして、その折伏は、歓喜から生ずるものであって、慈悲の行為であらねばならぬ。歓喜に燃えて御本尊様を拝し、歓喜に燃えて折伏する者こそ、本当の信心の者と言えるのである。かかる人こそ、願わずとも、御本尊様は無上の宝、即ち強い生命力と、福徳とを下さるのである。功徳なき者は、この歓喜と折伏が無いからである事を十分知らなくてはならぬ。

 

 自我偈に、仏には遭い難しと仰せられている通り、歓喜は御本尊様が最高唯一であって、よくも我ら如き凡愚がお目にかかれたものだ、遭い難きに遭ったという思いが、心に満ち溢れるならば、自然に歓喜が溢れて来るのである。

 

(昭和二十七年十二月二十五日)