戸田城聖先生の巻頭言集 20 折伏小論(2)

 

 はじめ信仰に入った当初は、非常に感激にもえて折伏する人がいる。この人は、寿量品において『不失心者(ふしっしんじゃ)』と説かれている人で、即ち、久遠元初の下種を忘れない人である。 故に、経論(きょうろん)は知らなくても、折伏の方法は究めなくても、御書を読まずとも、大御本尊様をお下げわたしいただくやいなや、久遠元初(くおんがんじょ)に拝し奉りし御本仏を、まのあたり再び拝し得て、歓喜に燃え立つのであるから、久遠元初の姿に戻って、ただただ御本尊を讚歎(さんたん)し、人々に、久遠の本仏を思い出す様に勧めるのである。

 

 ゆえに、その感激は、人々の琴線(きんせん)にふれ、大いなる折伏ができるのである。これこそ、真の折伏の姿であって、真実にして、久遠元初の折伏の方程式とも言いえようか。

 

 御本尊様を戴きながら、未だ真の感謝が湧き出ざる者は、寿量品に説く処の失心者(しっしんじゃ)』である。しかし、この人といえども、折伏を行じ、御本尊様に、たびたび接することによって、久遠元初を思い出し、感謝し、真の折伏を行ずる様になる。しこうして、失心者の人も、不失心者の人も、真実の感激を忘れた時に、折伏の仕方に、特種(とくしゅ)の形を現す時がある。この方法は、ごく危険なものであって、よく注意しなければならないのである。

 

 第一は、感激のないのに、理論に走る形である。大聖人様の哲学は、荘厳にして、真実偉大にして、完全(かんぜん)無欠(むけつ)なるが故に、この大哲学に感激する事は言うまでもないが、これを理解し、これを会得(えとく)する事は、至難(しなん)の事である。しかし、信じまいらせ感激する事は、かんたんなことである。その感激と信仰とを基礎にして、大聖人様の哲学を理解し、教えを()おうとするならば、会得も早いのであるが、信仰と感激を外にして日本の大学教育、専門教育及び科学万能の思想に毒せられし、ただ記憶し、ただ覚えをしゃべろうとする(くせ)を出して、大聖人の哲学を研究した者が、折伏する事は、危険この上なき事である。この形の中には、時に自己の偉さを示さんとし、はったりの様な形に見える事が、しばしばある。これが、上位にある者のやる時には、特に弊害が多い。慎むべきであろう。

 

 第二は、ご本尊の威光をかりて、折伏の系統を、自分の子分とみなす徒軰がある。折伏が、真の慈悲ではなくて、大親分になってみたいという考え方から、或いは本性的の働きから、この形をやる者がある。これは、増上慢の形であって、私の徹底的排撃をする徒軰である。この形は、寺院にも、時々見受けられるが、学会内にも、時おり発生する(どく)(だけ)である。この毒に当てられた者が、4、50人の折伏系統を持つと、寺の僧侶と結託して、独立する場合があるが、末法大折伏の大敵である。これを許す御僧侶は、慈悲の名に隠れた魔の伴侶とも断じたい思いであるが、御僧侶は尊きが故に言うにしのびない。

 

 第三は、信仰利用の徒軰である。信仰を利用して、自己の生活を立て、及び名誉を保たんとする折伏系統である。この連中の考え方は、戒壇建立という美名に隠れて、世の金持ち、世に権力者に阿諛(あゆ)する徒軰であって、何とかという代議士、何とかという金持ち、それを折伏する事を、大変な事であると考えている。こういう徒軰は、学会精神に反し、仏の真意に反するのである。今の世は、民衆の大半が苦悩の人々ではないか。この苦悩の大半を救う事が、学会の根本精神である。勿論、権力者と雖も、小さな悪人として救ってやりたいのは、当然である。

 

 第四は、信仰している振りして、実は信心なく、信仰の人々を利用して、生活の一助とする徒軰であって、かかる者は、徹底的に排撃しなければならない。

 

 第五は、偉大な信念も、絶対の確信も無いのに、さも自分が、大信仰者の様な顔をして、指導者に立つ輩もいる。かかる輩は、誠に危険であって、信心する者を、誤った道へ入らしむる恐れがある。この形は、主に学会人が、旧信者と呼ぶ者の中にいるのであるが、我々学会人も、特にこの点を注意し、旧信者のこの形を見た場合には、追い打ちに追い打ちをかけて、再折伏をしなくてはならない。特に、御僧侶にこの形があったりする場合には、(おもて)を冒してご諫言(かんげん)申し上げねばならぬ。

 

(昭和二十七年四月二十五日)