戸田城聖先生の巻頭言集 19 折伏小論(1)

 

 折伏の事について、どうしたならば、組長或いは会員に、伏をさせる事ができるかという質問を、度々される。この事について、一括して述べてみよう。

 

 第一に、認識と評価と、実践の問題である。信仰は生活である以上、折伏も、生活の方程式の中に、入らなければならない。我々が、物を買うにしても、売るにしても、まず、その物がどんな物であるかを、認識するのが第一の階程である。卵を買うにしても、リンゴを買うにしても、着物を買うにしても、或いは、仕事の材料を仕入れるにしても、その物がどんな物であるか、大きいか小さいか、柄が良いか悪いか、自分の仕事が適当しているかいないのかの認識を、正しくした後に、さて安いとか、高いとかの評価が起こるのである。評価が定まってから、買うとか止めるとかいう、実践活動が起こって来るのである。

 

 折伏も同様であって、御本尊様がどんなものやら、日蓮正宗がどんなものやら、正確な認識のない者に、それ広宣流布だ、やれ組単位で折伏しろと、いかに指導階級が怒鳴ってみたところで、相手は、フフンと、鼻で挨拶するに決まっている。例えば、反物を持ってきて、さあこれを売って来いと、幾ら押し付けてみても、その反物がどんなに安くて、自分がどれだけ儲かるかも判らないで、ヘイヘイと言って売って歩くバカはいない。

 

 これと同様に、折伏に対しても、まず御本尊様の偉大なる法力、仏力を認識させないことには、どうにもならない。しこうして、この御本尊様には、絶大なるお力があるのであるから、その祈りの叶わざるなく、福の来らざるなき偉大なるお徳を、ガッチリと認識させる事が、第一条件である。この認識が成り立てば、実に有難いものだ、誰の悩みでも解決してくれるものだ、どんな願いでも叶えてくれるものだ、という評価が成り立つ。そうなると、悩める人、祈りのある者、願いのある者等の為に、この御本尊様を与えたくて、(たま)らなくなる。即ち、折伏活動の実践が起こってくるのである。この根本方程式に立って、一切に慈悲を基にして指導するならば、大声で叱咤勉励しなくても、その人その人の立場で、自分自身の為に、折伏がなされる筈である。

 

 第二に、よく青年を中心としての質問であるが、組織はできているけれども、その組織をば、どう運営してよかろうかという質問がある。その質問をする人達は、大体において、班長とか部長とかいうクラスである。私は、組織をどう運営しようとか、組織をどう動かすとかいう事は、末の末であると思う。

 

 例えば、ここに立派に組み立てられた自動車があったとする。この自動車を、どうしたら動かせるかと、腕を組んで眺めている運転手がいたら、それはバカというより他はない。 学会の組織に、欠陥があるなら別として、組織ができた以上、それをどう動かすかは、問題ではないではないか。例えば、自動車を動かすには、タンクの中にガソリンを詰めればよい。ごく簡単な答えではないか。

 

 各部の部長、班長、分隊長が、その組織を動かすのは、信仰に対する絶対の確信と情熱である。その信仰に対する確信と情熱を、組織の中へ、エネルギーとしてみなぎらす事である。それで組織は、活発に動かなければならぬ。殊に、青年の確信と情熱が、信仰によって清められ、しこうして、いや増しに高められた時に、組織は、グングンと活動するのである。

 

 もし、長たる者に確信が無いならば、人を動かす事ができる訳がない。自動車でも、自分が運転するという確信を持つ事が、まず第一に必要である。しこうして、自分ばかりが、『確信を持った』と言っても、それは独りよがりであって、確信のある所には、自ずから情熱が湧く。情熱が無くては、また、物事は動き出さないのである。

 

 要するに、その活動が活発になるかならないかは、長たる者の人物にあるという以外にない。牧口先生の云く、『卒に将たるは易く、将に将たるは難し』と。これはよく、私に教えられた言葉であるが、学会員を見て、常に、私の思うところである。

 

昭和二十七年二月二十五日