戸田城聖先生の巻頭言集 18 入仏式について

 

 われわれ末法の衆生が、大御本尊を受持するということは、一大因縁であり一大果報である。なかなか、なみたいていのことでは、受持し通す幸運は、得られないのである。

 日寛上人様は三重秘伝抄にいわく、

「第一に一念三千の法門は聞き(がた)きことを示すとは経に曰く、「諸仏・世に興出(こうしゅつ)すること(はるか)に遠くして()()うこと亦難(またかた)し、正使(たとい)世に出ずるとも是の法を説くこと(また)難し、無量無数劫にも是の法を聞くこと亦難し、能く是の法を聴く者・斯の人(また)復難(またかた)し、譬えば優曇華(うどんげ)は一切愛楽(あいぎょう)し天人の稀有(けう)にする所にして時々(ときどき)(いま)(ひと)たび出ずるが如し、法を聞いて歓喜し讃めて(すなわち)ち一言をも発するに至る(とき)(すで)に一切の三世の仏を供養するに()りぬ」等云云、応に知るベし此の中の法の字は並びに一念三千なり」

 一念三千とはすなわち、大御本尊様である。御受戒を受け、卸形木様いただく喜びは、なにものにもたとえようもない。しかし、いまだ大法のありがたさ身にしまず、夢うつつのままに、ありがたいといわれても、胸にピッタリとは感じない。これは凡夫の常である。

 しかるに、朝タの勤行怠りなく、大聖人の御しきたりにならって、折伏の行たゆまなければ、小罰を得ては大利益を得、信仰と生活とがピッタリと一致して、常住御本尊様をいただきたくなる。ここにおいて、法主上人よりご印可を得て、常住御本尊様のおさげ渡しを願い、永劫の信心を決意する。御形木様すら、利益は広大無辺であるのに、究竟中の極説たる、弘安二年の戒壇の大御本尊様が分身散体して、自分の家にお出ましくださるのである。

ありがたしといわんか、もったいなしといわんか、いまさらながら、日寛上人様のおことばが思い出される。

『是れ則ち諸仏諸経の能生(のうしょう)の根源にして諸仏諸経の帰趣(きしゅ)せらるる処なり、故に十方三世の恒沙(ごうしゃ)の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経経の功徳、皆(ことごと)く此の文底下種の本尊に帰せざるなし、譬えば百千枝葉同じく一根に(おもむく)が如し、此の本尊の功徳無量無辺にして広大深遠の妙用有り、故に(しば)らく此の本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱うれば則ち、祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕われざるなきなり』

 このようにありがたい御本尊様を、わが家の宝となしてお祭りするとなれば、御形木様をお祭りしたときと違って、親族、知友および信仰の先輩をよんで、喜びをともにしたいと思う心のでるのは、当然のことである。

 ゆえに、御僧侶のお出ましを願い、一同とともに読経し、御本尊様に厚く厚くお礼申しあげる儀式を、入仏式と申して、当然あるべきことであり、なさねばならぬことと思う。しかるに、形式にながれて、親族、知友、先輩にごちそうすることが、なにか入仏式の本源であるかのごとく、考え違いする輩が、ままある。これは、もってのほかのことである。されど、身分に応じ、家計に従って、先輩、親族、知友に喜びをわかつ意味において、酒飯を出し、また御仏の前にお祭りしたものを、すそ分けするのは、決して悪いことではない。ことに、御僧侶への供養は理の当然である。

 けれども、私は断じていうが、身分不相応の費用をかけることは、絶対になしてはいけないと思う。また、数百万の資産家が、金を惜しんだ入仏式をするのも、断じていけないと思う。とにかく、入仏式に対して、自分の生活が困るような費用をかけることは、かえって、御本尊様に申しわけないことであると、学会員は心にかけて行なうべきであると思う。

 ここにおいて、私は学会員一同に忠告する。費用を多大にかけるような入仏式は、決してしてはならない。世間を考えたり、世間にみえをはったりすることや、どこどこの家ではどんなごちそうを出したから、私の家でも、このくらいしなければならない等の形式にながれては絶対いけない。各支部長も、かかる風潮が支部内におこったときには、いち早く厳禁しなければならない。ある地区部長が、常住様をいただけば、一万円もかかるから、そのお願いができないと、私は聞いたことがあるが、私は、身ぶるいするほどおどろいた。

 常住御本尊をおさげ渡しいただくことは、一生一度の名誉であり、果報である。これというのも、その支部の悪い風潮を気づかなかった、私自身の責任を痛感するのである。願わくば、信心強盛にして、会員諸君は一日も早く、常住御本尊をいただくべきであろう。

                          (昭和二十七年一月二十五日)