戸田城聖先生の巻頭言集 14 『三法律』

 

 世の中に、三つの法律のある事を知らなくてはならない。 世間法律、国法律、仏法律の三つである。 

 

 今、日本の国には、仏法を知る者が殆どなくなった。日蓮正宗以外の坊主はほとんど、仏法の定理を信じない。否、知らないのである。故に、仏法律のある事を知らないのである。 

 世間法とは、世間的評判であり、物質的生活内容である。国法律は正邪で、仏法律は勝負である。

 

 世間法律と、国法律と、仏法律とを、網に譬えれば、世間法律は大きな目の網で、国法律は中ぐらいの目の網、仏法律はごく細かい網の目で、絶対に、この法律を逃れる事はできない。

 

 世間に、如何に評判が良く、物質的に豊かであっても、国の法律には敵わない。国法は世間法より厳しいのである。如何に、国法に準じ、世間に評判良く、物質的に豊かでも、仏法に背けば、仏法律は絶対に厳しいのであるから、仏罰は当然である。如何に、世間に評判悪く、貧乏で、万が一、国法に背く様な事があっても、仏法律に違わなければ、冥々(みょうみょう)の加護があって、世間的にも良くなり、国法の支配を乗り越えた幸福が、起こるのである。

 

 例えば、日華事変中、三勇士と称えられた人々は、隊中で飲んだくれで、隊中での評判が良くなかったと聞く。しかるに、一度国の為に身を犠牲にするや、彼らは、一躍日本の国法に照らして、三勇士として、一般民衆より称えられたのである。これが、世間法より国法が強く、高い証拠である。芦田均氏は、一国の総理大臣として、評判の高かった人であるが、一度昭電事件に連座するや、国法の裁きを受けなくてはならぬ。世間法では、国法に勝つわけにゆかぬ。

 

 世間法は、世間の交際が良いとか、お世辞が良いとか、商売が上手いとか、財産があるとかによって、この法の利益を得るのである

 

 国法は正邪である。国の法律に照らして正であるか、邪であるかの判定を為すのであって、国民全体生活の秩序を乱さぬ最低範囲において、基準が置かれている。この基準において、正邪を定めるのである。

 

 仏法律は、国法をもっていかんともする事のできない、峻厳、かつ崇高な法律である。

 

 日蓮大聖人は、仏法律に、すこぶる忠順であらせられた。一切民衆に、真実の楽土を建設させん為に、命も捨て、苦しみを忍び、悪口に耐えて、ご奮闘をあそばされた。勿体ない限りである。世間法から見て、決して評判は良くなかった。国法に照らして、罪人となして、伊豆へ、佐渡へとご流罪である。国法から見て、世間法から見て、褒められるご境涯ではない。しかるに、大聖人は、仏果を成ぜられ、末法の御本仏として、仏国土に君臨あそばされて、東洋の仏法を、ここにご建立なされたのである。誰人か、大聖人のご心境を奪えるものぞ。如何なる国法も、大聖人の仏果を妨げうるものぞ。

 

 

 

 大聖人が『日蓮が流罪は今生の小苦なればなげかしからず、後生には大楽をうくべければ大に悦ばし』と。されば、仏法律は国法律をもって、いかんともなし難いものである。 国法律は、正邪をもって判じ、仏法律は勝負である。 仏法を信ずる者は、その生活において、勝負を決するのである。

 

 

 末法今時において、日蓮正宗を信じ、ひたすらに題目を唱える時、仏法律によって冥々(みょうみょう)の加護を受け、誰人も奪い得ない真の幸福を得るのである。

 

 ここに考えなければならないのは、最高の仏法律に従うといえども、世間法、国法の一部分であることを忘れてはならない事である。一切法これ仏法である。特に、世間法に背き、国法に背く事があってはならぬ。ただ、仏法を守らん為には、世間法も背かねばならぬ事はあるのである。

(昭和二十六年九月十日)