戸田城聖先生の巻頭言集 9 神札と菩提寺 ―因習の打破―

 

 古来、革命の成否は、因習の打破にあった。古い因習が打破された時には、革命は成就され、それが不成功の時に、革命は失敗に終わったのである。今宗教革命にあっては、神札と菩提寺に対する因習が、まず打破されなければならないと主張する

 

 第一に、神様と神札とは違うのであり、第二には、先祖と菩提寺とは違う事に、気がつかねばならない。 神様についていえば、今世間で『神』と呼ぶものに三つの種類がある。 第一は天地宇宙を創造したと考えられている神であり、第二には日本独特の、先祖を神としているものであり、第三には仏教上の神である。

 

 第一の神は、宗教の中でも『天造説』の神であり、これは仏教の『因果説』と相対するものである。惟神の道とか、天理教等の神がこれであるが、この宗教は、自然科学と全く相反するものである。

 

 第二の先祖を神とする思想は、道徳と宗教を混交したものである宗教とは、信仰祈願の対象であり、先祖に対しては道徳的な観点から感謝報恩を致すべきものである。故に宗教上の対象となるべきものは、智慧と教えを以て、迷いの衆生を化導する力のあるものでなくては、意味がないのである。この智慧と教えを以て、永遠に変わらず、迷いの衆生を教化してくださる方を、『仏』と申し上げるのである。この意味が解ってみれば、先祖に対して信仰祈願する事は、全く意味のない事と直ぐ了解できる。何故なら先祖は、『一切衆生を化導する智慧』など持っている訳がない。先祖は、死んだからといって仏になったのではない。やはり、我々と同じ迷いの凡夫であるが故に、子孫が幸福になる事をのみ、願っているに違いない現在生きている子孫が、仏の化導に浴し、幸福になってこそ、初めて先祖も幸福になれるのである

 

 第三に、仏教上の神とは、『正法を護持する』という誓いを立てた者である。大梵天王、帝釈天王等々、全て『正法護持』の神であり、これらの神は、正法を受持する者を見て放っておく訳がない。必ず正法受持者を護持する事のみが、唯一の使命であり、作用である。 日蓮宗中山派等で、鬼子母神にお題目を唱えさせる事などは、全くインチキ宗教の代表と言わなければならない。法華経の原文を見よ。鬼子母神は正法護持を誓っているではないか。故に、我々の受持し帰依すべきものは、『正法』以外に何もなく、かくの如き神々を祀って拝む理由は、仏教の何処にも見当たらないのである。

 

 しかるに、日本人は、神社から、お金を出して、お札を買ってきて、それを、どこかへ、貼り付けておけば、それで神を信仰している事だと思っている。先祖の菩提寺へ行って、その寺が、如何なる宗派で、如何なる教えを説くかなどは、全く研究もせず、疑問も持たずに、ただ墓場を掃除し、僧侶にお金でもあげておけば、先祖も喜び、自分も幸福になれると思っている。

 

 神社から買ってきたお札の中には、神様はいないのだ。その実証は、あらゆる神札を山の如く積み重ねながら、不幸のどん底に喘いでいる人々を見よ。神札には神様が居るのではなくて、悪鬼悪魔の住み家となっているのである。だから、ススにまみれ、チリにまみれさせた挙句の果ては、破って焼き捨ててしまうではないか。墓場を掃除し、位牌を拝んだところで、先祖の供養にはならないのだ。既成の宗教は、全く大衆の生活と掛け離れた無力のものである。これらの因習は、ただ神主と僧の生活維持にしか、役立っていないのである。真に先祖を供養し、神様を尊敬する道は、独一本門の大御本尊に、お題目を唱え奉る以外にないのである

 

(昭和二十五年七月十日)