戸田城聖先生の巻頭言集 8 広宣流布の姿

 

 大聖人様におかれては、南無妙法蓮華経のお教えが、一閻浮提に流布せらるべしとの大確信でいらせられる。仏の確信は事実であって、決して単なる理想ではない。文証、真正であり、理路また整然として、現証もまた厳然たるものである。

 在世の仏法は東洋にひろまり、幾億万の人を利益(りやく)した先証があるから、また大聖人様の仏法が一閻浮提にひろまることは、言うまでもない。釈迦の仏法がインドにひろまり、数百年の後に中国へ伝来し、一千年、東洋に広宣流布して、二千年を益した。大聖人様の仏法が、日本を風靡する年月は、仏記を知らぬわれわれは、その年月を知るよしもないけれども、必ずや三大秘法建立のある時を疑わないのである。その間、幾多の仏子の屍を妙法にささげて、大聖人様のご嘉賞(かしょう)にあずかることであろう。

 しかして、現在の仏教界を見るのに、日蓮宗と称するものの各派は、広宣流布の美名にかくれて、愚迷の民衆を狂わして、各自の流派を広めている。その広まり方は、実にものすごいものである。一応見るときは、お題目を唱えているので、広宣流布の姿に見える。吾人は、その広めつつあるものが、いつわりに満ちた、かってに作った、偽日蓮宗であるというその本質を、今ここで、論議はしないが、かれらの広宣流布の仕方を考えてみたい。

 その本質は偽物であるということを考えないで、その広め方を見るだけでさえも、最高無比の純すいな日蓮大聖人の教えも、そのようなやり方で広めなければならないかというに、決して、そうではない。かれらの広め方は、まったく悪らつというよりほかない。

 釈迦の経に、『僧として、わが法を広むるものには、わが白毫の光いたつて、一国の米を集めて、とぼしからしめない」との意味のおことばがある。(おもて)から見て、今盛んになりつつある各派のやり方が、支部長、幹部ともなれば、自分の信徒から本部へ集まる金の割りまえを受けて、その生活が安定して、なんの商売をするよりか、この方が金もうけになると、公然と言っている人があるという状態である。『俗のなかに僧あり」と。かれら、また僧として、わが法を広むるの条件にかなって、このような事実ならば、仏法の規則によって、幾分許されることもあろう。しかし、それは、一応、美名にかくれたもので、宗教屋というかれらの活動にすぎない。そんな深い理論を知っているのではない。なぜかならば、大聖人様の開目抄(御書全集二二五頁)に、涅槃経をひかれたおことばによって、りっぱに証明できるであろう。

「我れ涅槃(ねはん)の後乃至(ないし)正法(しょうほう)(めっ)して後・像法の中に於て当に比丘有るべし()(りつ)似像(じぞう)して(わず)かに経を読誦し飲食を貪嗜(とんし)し其の身を長養す、袈裟を()ると雖も(なお)猟師(りょうし)(さい)()徐行(じょこう)するが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の(ことば)を唱えん我れ羅漢(らかん)を得たりと、外には(けん)(ぜん)を現わし内には貧嫉(とんしつ)(いだ)かん唖法(あほう)を受けたる()羅門(らもん)等の如し、実に沙門(しゃもん)(あら)ずして沙門の像を現じ邪見熾(じゃけんし)(じょう)にして正法を誹謗せん」

 今、町における低級な偽日蓮宗は、前の経文にあるような、正しい教義にせめられると、アホウのバラモンのごとく、一言半句も受け答えができなくて、先達に聞いてくれという。

先達へ行けば支部長に聞けといい、支部長へ行けば本部へ行けという。本部へ行けば、末端と同じに、アホウを受けたバラモンのごとく、なんらの受け答えもできない。かれらの唯一の逃げ手は、『信仰は理屈でない。ただ信ぜよ』という。

 唖法というのは、『バカ』という意味に、今日では使っているが、このアホウの意味は、人間のことばを忘れる修行をした尊者のことを言うのである。そして、偽日蓮宗の導師なるものは、まったく、このアホウの手を打つのである。このような偽日蓮宗が、広宣流布の形をとって、全国にゆきわたりながら、真実の大哲学を持ち、大慈大悲の日蓮大聖人の真実の教えが、広宣流布の姿を、とりえない現状である。いまだ広宣流布のときにあらざるか、機なきか、仏意はかりがたし。邪教が先にはせて、真実の教えが後にひらくか。いまだ仏子の難にあうこと少なきか。信者の折伏のたらざるか。

 日蓮大聖人の真実の教法を広宣流布せんとするものが、例を偽日蓮宗にとって、貪嫉(どんしつ)の供養を受けた宗教屋の姿をとるべきか。否、否、吾人はあくまでも貧に甘んじ、罵詈悪口をしのび、杖木瓦石を恐れとせず、命におよぶ大難も何ものぞ。『智者に我義やぶられずば用いじとなり』の大聖人の金口に随順して、屍を仏前にさらさんとするのみである。

                            (昭和二十五年五月十日)